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【民俗学漫談】祭の発生

民族学漫談。と言うことですが、あるテーマをどのような切り口で書き上げるのか。

何事も、これが要です。

生活の現象を民俗学を通して、見てゆくのが、この漫談のテーマです。

それでは始めたいと思いますが、正確さよりもノリ重視で行きますのでご了承ください。

過去と未来の感覚がなければ祭は発生しない

常に思うのは、来し方行く末と言うものです。

これ、いくらでも思い続けられます。

記憶があるので。

人間は記憶を持つようになって、いつごろでしょう、二本の脚で立ち上がったころでしょうか。たまに四足になっていたと思うんですがね、また立ち上がる。さっき立ち上がれた気がする。と、つらかった、と、しかし、景色が変わった気がする、全然違う、うん、もういっぺんやってみよう、その辺が記憶の芽生えじゃないかと思うんですがね、そして、記憶を持つようになって、昨日の事を覚えているようになった。そうすると、役に立つことも多いんですが、種まきの時期とか、動物がやって来る時期ですとか、ところが、そういう、役に立つ記憶のほかに、憂鬱なことも覚えるようになった。積極的な憂鬱な記憶のほか、消極的なもの、つまり、今日一日は、昨日一日と、何も変わらなかった。そう言う記憶も覚えだします。今日一日が昨日一日と何も変わらなかった。とくれば、明日も変わらないんじゃないか、こんどは、記憶をもとに、予測という事を始めるんですね。これが。で、今日一日が昨日一日と何も変わらなかった。とくれば、明日も変わらないんじゃないか、ということになる。日常の始まりです。日常と言う意識が芽生えます。今日は今生きているという事、明日や昨日とは違う今日ではなく、明日や昨日と同じ今日を過ごしているという感覚の芽生えです。

動物は、「日常」すら持っていません。動物を見下しているわけではありませんよ。動物には、本能に支配された今があるだけです。それが人間には、不思議な動きや生き方に見えて、「聖なるもの」につながっていくわけですが。

また、記憶を持つということは、自分を客観的にみられるということです。それは、自分を自分から離れてみる。距離を取れる。空間と時間のなかで自分を見つめられる。とそう言う事です。それがのちに祭りにつながっていきます。

そこから時代が下ります。ざっと、50万年くらいでしょうか。

労働の発生

人類は、すっかり労働をするようになっています。

記憶を持ちながら、同じことをくりかえしていると、そこから抜け出したくなります。現実が色あせていくわけですね。

労働ということを始めて、状況が安定してくるにつれ、その繰り返す日常を生きるということになります。

そうなってくると、収穫の時期が待ち遠しい。動物がやって来るのが待ち遠しい。わくわくしながら待つという感情が芽生えてくる。

そうなってくると、今までのように、たんに、栗の収穫をする。鹿の群れを打倒すだけでは、ままならない。収穫ついでに、一つはしゃぎたくなってくる。収穫に付加価値を求める。収穫ブラスアルファです。もう、客観的にみられるようになっていますからね。

ストレートに言ってしまうと、収穫にかこつけて、飲みたくなる。

これが祭りの発生です。

で、どうも、そうして、収穫や、大きな動物を倒した時に、盛大に宴会を開けば開くほど、次の年の収穫量が多い気がする。実際はそんなことはないんですが、根に、「はしゃぎたい」という気分がある。すでに根差してしまったものはぬぐいきれない。今のように、精神分析なんてありませんからね。そこで、いっそうはしゃぐ。同時に、はしゃぎ方にバリエーションがでてきます。

例えば、現代、「わたし、こんなにしあわせでいいのかな」と思う人がいるそうですが、古代の人間も収穫した物をまえにして、「これ全部食っていいのかな」と悩みます。

当然、予想以上の収穫があった時ですよ。ぎりぎりの時にそんなことは思いません。

その過剰と思える収穫があった時、過剰というのは、量に加えて、質ということもあります。そのとき、どういうはしゃぎ方をしたのか。

供えたんですね、祀ったんですね。収穫したものをとある場所において見たりします。さらにおおきな動物に対しては、獲物という感覚以上に聖なるものという感覚がありました。なんか、すごい。自分たちとは違う。堂々としているし。それを倒す。妙な気分になる。どうも胸の奥が痛む。どうしたものか。で、祀る。と。

一度、祭の味を知ってしまったら、もうやめられません。もともと、過剰から始まったものですから、年ごとに派手になります。はしゃぎ方に、念が入ってきます。物質的なものが許す限りでですが。

そこで限りがなくなるのを抑えるために、その蕩尽(とうじん:持っているものを惜しみなく使い果たすこと)のやり方に規定が設けられます。此れが儀式につながっていく。

祭りは、日常からの逸脱です。もっと正確に言えば、労働からの逸脱です。さらに正面切っていうと、逸脱のためのものです。逸脱したいんです。脱出したいんです。日常という労働から。逸脱が目的になってきます。途中から。ここから逃げ出したい。

上層階級からしたら、ほいほい逃げられても困るので、祭りという逸脱の場、囲いで囲った場を設定したわけです。

人間は混沌なんですよ。

人間は、放っておくと、ゆらゆらしてしまいますから、祭りを行い、日常の再スタートを図るのです。
揺らめく燈(ともしび)につられて、一度、向こう側に行くわけです。
そうして、祭りの後、お盆の後、夜明けとともに、違う自分になっていることにドキッとします。

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