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小説

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#コント

【小説】ブラボー親爺【12枚】

『徒久多゛煮』と太く勘亭流で書かれた行燈が軒先にかかる。木枠のガラスケースには佃煮が並ぶ。佃煮に挿してある薄板には価とともに、『あさり』や『うなぎ』と書かれてある。くつがえった札が二枚ある。  店の奥、上がった六畳間にはちゃぶ台を差し挟んで親爺二人が相対す。  手近にラジカセを置いてある。ベートーヴェンの交響曲第九番の結びの部分が流れる。 「せーの」と、ブラボー親爺がラジカセに耳を傾ける。  第九が歌い上げられた。 「ブラボー!」と親爺二人の声が立つ。 「うん、早

【小説】蛸親爺(たこおやじ)【168枚】

その一居酒屋の前の往来、路のまんなかで蛸が酔っている。 「たーこたーこ、たーこたーこ」と地面を手で叩いて拍子をつけながら、 蛸が声高に唄う。 花風の吹く夕、往来に面して油染みた暖簾を出す居酒屋の、店先にはビールケースが積まれ、立て看板、一升壜、牡蠣殻が並ぶ。朱塗りの行燈の明りの先に、蛸が八本ある足をだらりと伸ばし、腹を兼ねた頭を横様に倒しながら、墨吐き口を突き出して唄っている。 唄う合間に、「ういーっ」と一つ吐く。また唄う。それを繰り返す。行き交う人々は、『あれは何だ』とい

【小説】自己忘却セミナー【80枚】

     一 夕方五時の放送が響く。破(わ)れたスピーカーの音に続いて、夕焼け小焼けの曲が流れる。 「何だあの音は!」と男が撥ね上がった。 「何だって、五時だろ」 相手の男はちゃぶ台を挟んで答えた。こちらは心持鉤のある鼻を、スポーツ新聞に向けたままである。 「あの陰惨な音、五時だから何だというのだ。何故、おれに知らせる」 男は片手にボールペンを持ったまま藤木を見下ろす。ちゃぶ台には履歴書がのる。 「昨日だって、一昨日だって、毎日鳴ってるぜ」 藤木は引っくり返っ