撮る。撮る。撮る。

撮る。撮る。撮る。

私たちは写真を撮る。
私たちは動画を撮る

それが当たり前の日常になってどれくらい経っただろう。

私は昭和最後の世代。
モー娘。が全盛期だった時に、小~中学生で
あややが、桃の天然水のCMで「ひゅーひゅー」言ってて。
ポケモンはまだ151種類だった世代です。

_

小学生が撮る写真と言えば「写ルンです」
使い捨てのインスタントカメラだった。
修学旅行の時には持って行くことを許される特別なカメラ!
もう、持って行けるときは嬉しくて。
友達と撮り合って大いに盛り上がった。

現像すれば、黒っぽく写っていたり、白とびしていたり、
皆で良い感じの集合写真なのに自分だけ半目になっていたり。
ずいぶんと失敗写真も多く、奇跡の一枚があったとき。
ちょっと大きめに引きのばしたりもした。

それから、小学生の時は「チェキ!」というポラロイドカメラが流行った。
写真をすぐに見られる!
その時の驚きと感動をまだ覚えている。

ただね、ポラのフィルムは高かった。
1枚100円程度。
当時の1か月のお小遣いが750円であったことを考えれば、
1枚の貴重さが分かる。
パシャパシャ手当たり次第に撮るということは出来ない。
大事に、大事に1枚を撮り、アルバムに収めたり、丁寧にデコレーションして友人にプレゼントしたりもした。

そして、小学生の時の大革命といえば、プリクラ!!!

私と同年代の、小中高の遊びと言えば、もうプリクラでしょう!
最初のプリクラは1.5×2.0cmくらいのカットされたシールシートが16枚ほど印刷されて出てくるものだった。
どこの機械が良いとか、ちょっとシートが大きいとかそんな話題。
休みの日に、お小遣いを握りしめて皆で撮りに行っていた。

そのうち落書き機能が付いたり、
カットされたシートではなく自分でカットするものになったり。
キラキラの金文字が書けるようになった(キララが出た)時は、ドキドキした。
さらには背景の合成が出来るようになったり、
コスプレしてプリクラを撮るという店舗も出て来たり、
それはそれは楽しいアミューズメント化していった。

わたしが高校に上がる頃、
はじめて携帯電話に30万画素程度のカメラ機能が付いた。
これも大革命であった。
小さな画面にガサガサの写真。
それでも、プリクラばかり取っていた友人たちと手軽に写真を撮れて、更に送れることが嬉しくて、ことあるごとに皆で撮っていた。

当時、現像用はデジカメ。
ちょい撮りで、送るのはケータイ。
そんな使い分けだった。

携帯電話もその後
数年で、デジカメレベルの写真に。
ネットプリントというサービスが出来た。

スマホに切り替わってからは、
どんどん画質も機能も上がっていき
加工も、秒で完了。
今はほとんどの写真をスマホで撮っている。

_

我が子たちは「写真を撮る」その行為が、
文字で記録することと同じように当たり前の行為になっている。

私自身も、あの写真を撮るワクワク感を無くした。

カフェに行けば、内装やフードの写真を撮り、
子どもが遊んでいるところを「無限」に撮る。
その中の、良いものだけを残して削除する。
写真を加工して、美しく整える。
それは、もはやその場で見た現実とは
全く別のものに変化させてしまう。

撮る枚数は劇的に増えた
撮る行為が、身体に馴染んだ

でも見ている対象が
人物やその時の空気ではなく
画面になり変わっていく
残るものも偽りになっている

キオクの残り方すらも、
いま自分の頭ではなくデジタルになっている氣がするんだ。

そう思って、
少し、
撮ることより感じることに重きを置くようになった。

撮る。撮る。撮る。

何のため?誰のため?
それ、本当に必要?

写真と撮る行為の本質を、今一度考えたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?