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【自伝(3)】拗らせのーこの半生(番外編・のーこ家の事情)

今回書く予定だった内容は次回にします。
番外編です。

私の半生を書いた記事を読まれた皆さんは、もうお気づきかと思われます。
のーこという女、とことん自分を大事にしません。
その原因は多分これかな?っていうのがあります。

前回の記事で軽く触れましたが、私は機能不全家族の中で育ったアダルトチルドレンってやつみたいです。

自分の半生を語る上で家族のことも話そうかなと。
でもですね、結構書いてきてるんですよ。家族について。
以前のnoteアカウントであったりブログであったり。

なのでもしかしたら何となく知ってる・覚えてるって方がいるかもしれません。
そんな方は飛ばしても大丈夫です。





我がのーこ家を一言で表すなら、「無機質」である。

一応ここでも家族構成を書いておく。
父、母、姉、私の四人家族。

何ともまぁ、みんながみんな不器用すぎる人間である。
血液型が関係あるのか分からないけれど、AB型とO型の両親の間に、A型とB型の娘が産まれた。ちなみに私がBです。
みんな見事に性格がバラッバラだし、家族というチームというよりかは、それぞれ個の人間が集まってできた集団という感覚。

私が小学生になってすぐに、両親は一緒に飲食店の経営を始めた。
母は休みの日に幼い私を遊びに連れて行ってくれたりしたが、父とは遊んだ記憶はない。
ただ、父はとても映画が好きで、よく私をレンタルビデオ屋さんに連れて行ってくれたことはある。

家族旅行などの記憶も殆どない。
私がまだ3歳とかそれくらい小さい頃に家族で一度だけディズニーに行ったこと、そして母方の実家の方にみんなで行ったこと。
それくらいしか思い出はない。
まだあるだけマシなのかも。

こうやって思い返せば、それなりに家族らしいことはしていた。
でも、私の記憶の中の家族はみんな楽しそうではない。

何歳の頃かは忘れたけれど、多分小学生くらいかな。
父が誰かと電話をしていた。すぐそばに私はいた。
父は電話の相手に、「俺は責任感だけで子供を育てている」と言った。
その場に姉はいなかった。私だけがその言葉の意味を抱えることになった。

そしてそれなりに年齢を重ねてから、「無機質」の正体に気づき始める。
誰も家族に対して「ありがとう」と「ごめん」を一切言わないのだ。

父と母はよく喧嘩をしていた。
と言っても母が一方的に話すだけで、父はそれに全く聞く耳を持たないという感じで。
そして母は自分の主張が通る前に諦めてしまうので、子供の私から見たらいつまでも消化不良であった。
家族ってこんなにも話し合うことができないものなのだろうか?

のーこ家は年功序列が非常に強い家庭だった。
一番偉いのは父。まぁ分かる。
一番最後に産まれた私は、一番最後に産まれたからという理由で簡単に言えばパシリのような扱いだった。

姉とは4つ歳が離れている。
いくら年功序列が強いとは言え、姉と私に対する扱いの差が酷かった。
両親共に、姉に対しては「家のことは何もしなくていいよ、自分の好きなことしなさい、好きに生きなさい」と言い。
私に対しては「あれをやれこれをやれ、これはやるな、言ったこと出来ないのか本当に駄目なやつだ」と言う。

姉は本当に家のことを何もしない人だった。
自分が使ったスキンケア用品やメイク道具すら、妹の私に親から片づけなさいと言われる。

両親が共働きだった為、小学生の私が夕飯を用意していた。
姉に「何が食べたい?」と聞くと「何でもいい」と返ってくる。
だから自由に用意する。すると「私こんなの食べたくないんだけど」と言われる。
なので次の日もちゃんと「何が食べたい?食べたくないものあったら言って」と聞いても、やはり「何でもいい」、「私こんなの食べたくない」と言われる。
はっきり言って殺意湧いた。

姉は部活もバイトも一人暮らしも何でも自由に楽しんでいた。
中学・高校どちらも部活を三年間きっちりやり遂げていた。
私はと言うと、中学のたった一年で吹奏楽部を辞めさせられた。

私は小さい頃から体力が極端に少なかった。虚弱体質とも言う。
そんな私が中学生になり、意外と体力を使う吹奏楽部で一生懸命練習するとなれば、当然疲れ果てる。
結構遅くまで練習があったりした為、家に帰ると私はご飯も食べず制服のまま寝てしまうことが多かった。
起きると夜の11時とかになっている。
その時間にいつも共働きの両親が帰ってくるのだが、私は働いてきた両親の為にお風呂の用意をしていなければいけなかった。

でも部活で疲れて寝てしまって出来ていない。それをいつもいつも怒られた。
でもさ、うちにはもう一人娘がいるのよ。姉がいるのよ。
当然家にいるのよ。代わりにやってくれたっていいじゃん?
でも姉は絶対にやらない。そして私が怒られる。なぜか姉も一緒に責める。

私は吹奏楽部が本当に楽しくて大好きだった。
初めてちゃんと楽器に触れ、初めて沢山の人と一緒に演奏し、もっともっと上手くなりたかった。
だから練習を一生懸命頑張った。
その時の生き甲斐であった。

なのに、私が疲れ果てて寝てしまってお風呂の用意が出来ない。
たったそれだけの理由で、私の生き甲斐は奪われた。

子供が部活を頑張って寝てしまうことはそんなにも罪深いものなのか?
寧ろ頑張れって応援してあげるものじゃないか?

小さい時から気づいていた。分かっていた。
私の意思なんか家のどこにも存在していないことを。

小学生の私が何気なく鼻歌を歌う。
それを聞いた姉が「あんた下手くそだから廊下で寝て」と言う。
泣く泣く私は本当に廊下で寝る。
翌日、そのことが悔しくて私はまた泣いてしまう。
大人たちに理由を話すと、そんなことで泣く私がおかしいと笑う。
姉は常にお姫様だった。

世間のことなんてまだ何も知らない小学生の私が、家族みんなのカップラーメンにお湯を注ぐ。
うっかり自分の分から注いでしまう私に、「一番偉い人から注ぐことを知らないの?馬鹿じゃない?」とみんなが罵る。

大人たちからこんな扱いをされ、私という子供が自分に存在価値を見出すわけがない。

私は家族に自分の主張をしないようになった。話せなくなった。
言ったところで聞いてくれる人なんかいないからだ。
母はそんな私を「聞き分けのよい子」と評した。

姉の為に私が存在しているようなものであった。

でも姉のことはそこまで憎みきれなかった。
私が大人になってから聞いたりして推測した話で、姉は知らないであろう話を少しだけする。

私の両親はできちゃった結婚である。
これは姉も知っているはず。

父の亡き後、母は酒に酔い「お父さんは私を恨んでる」なんてことを言いながら泣いて発狂した。
その場面に姉はいなかった。

諸々のことから推察するに、恐らく姉は産まれてこなかった可能性があった。

だから多分、両親はそんな姉に負い目を感じ、甘えに甘やかしたのだと思う。
そして私が産まれ、姉を甘やかす分の皺寄せが全て私に。
そう考えると全ての辻褄が合うなと。

でも本当にただの推測だ。
それにそう思い始めたのも私が大人になってからで、子供の頃の私は何も知らなかった。
そしてこのことを姉に言う気はない。

ただこれらが正しかった時、私が家庭内で「スケープゴート」であったことがとてもしっくりくる。
姉に知られてはいけない闇を全て私に押し付けたのだ。

そんなこんなで家庭内の強い年功序列により手のかからない子供であった私は、まぁまぁ真面目だった。
でも勉強は嫌いであったし、成績とかどうでもよかった。
とにかく家から早く出たいと思っていた中学時代、高校に進学せずに働きたいと先生に申し出たことがある。
そんなことを言うのは学年でのーこさんだけだよと言われた。
それに中卒で雇ってくれるところなんて本当に少ない、だから少なくとも高校には行きなさいと説得された。

先生の説得により高校には行くことにした。私が定時制に進学したのはこういった背景があったりする。

高校生にもなると、私もそれなりに自分というものが出来始めていた。
私がどうしたいのか。とにかく楽しく過ごしたいと思った。
その為に努力をした。人見知りを直し、色んな人と積極的にコミュニケーションを取り、とにかく盛り上げようとした。
多分元々それなりにそういった性質を持っていたのだ。

この時にしっかり者の「のーこ」が出来上がってしまった。

バイトも勉強も頑張った。
バイト先も飲食店のホールで、働きっぷりが評価され、あれよあれよと言う間に時給は1,000円までアップした。
定時制だったため、正直授業のレベルはかなり低かった。
だからと言ってしまえばあれだけども、常に一番を取り続けた。資格も誰よりも多く取った。
卒業時には成績優秀賞をもらった。

母はそんな私を、お店のお客さんだったりに誇らしそうに自慢していた。
「うちの子すごいでしょ?私の子よ」と。

高校時代はバイトもしながら、実家の店の手伝いもしていた。
関係ないけどこの頃の私のフィジカルすごっ。

私がいる前で両親は喧嘩をし、私は黙って見ていることしか出来なかった。
そして父がその場から去ると、母は私に愚痴る。
心の中では母に対し「もっと強く言えよ」と思ったが、父が全く話を聞かないのも問題だったのは確かなので、とりあえず母に共感していた。

私の本当の本音は、両親がお互いにもっとぶつかり合って、ちゃんと話し合って、二人が納得のいく答えを出してほしかった。
父のいない場で母から父の愚痴を聞くなんて、嫌で嫌で仕方がなかった。
でも母は私にしか言えないのだろうなと思うと、やはり何も言えなかった。

私は私の為に頑張っていた。
そのつもりだった。いつか自分らしく自由に生きるために。
この頃にはS君ともお付き合いが始まっていたので、今思えば崩壊の始まりであった。

いつから自分の為じゃなく、しっかり者の「のーこ」を保つ為に頑張り始めたのかは分からない。

周りからいつも「しっかりしてる」「凄い」、そんな言葉をかけられ、どうやって弱さを出せばいいのだ。

私は頑張っているだけなのに、誰も頑張っていることを褒めてはくれなかった。
努力なしにこなしていると思われていた。
そんな訳あるかっ。

疲れた。とにかく疲れた。
「凄い」なんて言葉聞きたくない。

就職してもその言葉はかけられ続けた。
「高校卒業したばかりなのに、色々出来るのーこさんは凄い」。
私のすぐ上の先輩は上司たちから、「あの子はずっと頑張っていて偉い」と評価されていた。

私が一番欲しい評価だった。

本当の私はどこにいるのだろう。
そもそも私なんて人間が存在しているのだろうか。

「しっかり者」で「駄目な子」で、「聞き分けのよい静かな子」で「愚痴を吐けば慰めてくれる子」で。

大人になってからは家族から心ない言葉をかけられた。

乳ガンが分かってすぐ、母に「あんたに結婚は無理ね」と言われた。

父が亡き後、母は私に言った。
「お父さん、お姉ちゃんのことは親孝行者だけど、のーこのことは親不孝者って言ってた。私はそんなことないって否定したのよ?」

何で?何で私ばかり、家族からこんなこと言われなきゃいけないの?
主に母だけど。
親不孝者?何でお父さん死んでからそんなこと言うの?
死んだ後じゃ、本当のことなんて聞けないじゃないか。
私はこの先死ぬまでずっと、父にとって親不孝者の娘でしかないじゃないか。

いつも一人で泣いていた。
家族の前でだけは泣かなかった。何回か泣いたことはあるけども。
泣きたくなかった。
本当の私を知られたくなかった。
でも本当は知ってほしかった。

大人になり、父が自ら命を断ち、家族へのコンプレックスが強いまま悩み続けるのは嫌であった。
どうにか克服したいと思い、私は母と姉に家族会議を開きたいと申し出た。
議題は私の小さい頃の扱いについてだ。
私はあなたたちからこのような扱いを受けた。あなたたちはどういった理由からこんな扱いをしたのか、それを教えてほしいと。
至極冷静に、そしてちゃんと伝わるように。
母と姉は「ごめん、全部のーこの言う通りだ」と言った。
「私はそんな言葉を聞きたいんじゃなくて、理由を知りたいの」
何度も何度もそう尋ねたのに、返ってくる言葉に変化はなかった。
あぁ、そうかと。この人たちは一番年齢が下だからと馬鹿にし続けたこの私の言葉を、何一つ理解出来ないのだと。
私はこの人たちに期待したことが馬鹿馬鹿しくなった。
この時にはまだ姉についての推測はしていなかったのだけど、今思えば沈黙が答えなのかもしれない。分からんけどね。

そして私は母と姉から距離を置いた。
見限ったとも言う。
ちょくちょく必要な連絡は取っているけども。

家族から離れて、やっと私は自分らしく過ごせている。
泣きたい時は泣き、怒りたい時は怒り、笑いたい時には笑う。
歌だって自由に歌う。
どれも子供の頃に出来なかったことだ。

なので、今の私は随分と幸せである。
もうちょっと人生頑張りたいけど、とりあえずのんびりやっていこうかなと。

私が自分を大切にしないのにはこんな理由があるんだよと。
そのことを伝えるために書きました。

自分を大切にするってどいうことか、今でも分からない。
絶対的な存在であるはずの家族にすら存在を否定されることもある。
でもそんな家族にも思うところがあって、理解することで少しはまぁ、許せるかなと。

自分だけは自分のことを絶対的に肯定する。
これを忘れずにゆるりとやっていこうと思います。

長々と読んでくださってありがとうございました。
それではまた次回。


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