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35年前の「教え」が、今そしてこれからの指針になる

私が、1986年に卒業した高校の校訓に『三敬主義』というものがあります。生徒であった当時はもちろん、20代30代のころも思い返すことはすくなかったのですが、今、50代になって、また、デジタル化が叫ばれる時代、「新しい価値観」が求められる時代において、ようやく、心に感じ入る、深いコトバ、教えとして考えられるようになりました。改めて書き出してみようと思います。

明治の世で作られたコトバ

母校のホームページによると、『三敬主義』とは、このように書かれています。

「他を敬し、己を敬し、事物を敬す」ということ。「敬の気持ちをもって他人に対すれば礼となって和の徳を生じ、己に対すれば自重自律となる。また机上の雑務から一国の政治まで、すべて敬をもって扱えば、物事はその性能を発揮して久しく耐え得る」という意味を持っています。

どうでしょうか。(おそらく明治時代終わり頃に)二代目の校長先生が作った100年前の言葉だそうですが、いまもってなお、大切な本質的な教えを、明確に示しているように思います。「他(者)を敬し」が一番最初にくるのがポイント。次に自分を肯定する、受け入れて成長すること、さらには身の回りの関わる人”以外”にも目を向けることを説いています。

学業、仕事だけではなく、人生においても

あたりまえなんですが、「他者」に対しての敬いの気持ち、最近の言葉で置き換えると「リスペクト」、これは最も大切です。自分の身の回りで支えてくれる方々にはもちろん、困っているひと、悩んでいる人、迷っているひと、経験の少ない若い人、ひいてはビジネス場面でのおきゃくさまにもリスペクトの気持ちで接することが、人としての成長に繋がると確信します。この気持ちを持ったうえで行われる行動は、何らかの見返りを期待して、ではなく、自らが与える、ということになるでしょう。例えば(言葉で表すほどのことではないのですが)電車の席を譲る、とか困っている方に寄付をする、とか。「他を敬す」る気持ちをもっていることこそが「自分を敬す」=自分が成長するための行動の起点になります。

デジタルな世の中、だからこそ

世の中は大きく変化しています。数年前は思いもしなかった、「人と合わない」ことが推奨される社会になってしまいました。それを補うことも含めて、デジタル化が声高に言われるようになりました。でも、今のデジタル化には少し違和感を感じていて、便利になるのと「他を敬」うのは、逆行するものではなく、同じベクトルのはずです。今はなんとなく「0じゃなければ1」という側面が大きく見えちゃっているのが実感です。
スマホ決済、便利ですよね。ホームページからの申込、いつでもできるので便利です。でもわからない人たちにとって、現金での支払いができなかったり、電話で聞いてみることがしにくかったり、は、「便利」ではなくなっています。「困っているひとたち」を敬しているのか、疑問に思う取り組みが、少なくないのが現状、ちょっと残念な場面が少なくないのです。

損得ではない気持ちが、あたたかい

里帰りや、旅行で非日常を体験する時間。自然に触れたり、土地の名産を食べたりするのと同様、思い出に残るのは、いつもは会うことのできないその土地の人との会話、触れ合い、だったりします。
ブドウ狩りをして、お支払いとは別にひと房「持っていきな」と言ってくれたり、実家の親戚から「畑でとれたもの」を大量にもらったり。もらう私たちの喜ぶ顔が見たいから、いっぱい食べてほしいから、の気持ちからの行動ですよね。そこに損得勘定はないし、なんら見返りも期待していない。それが「あたたかい」気持ちにさせてくれます

AIじゃできない「リスペクト」

高齢の方が、一所懸命LINEで返信をくれた内容。誤字があったって、同じ文書が繰り返されたって、気持ちは伝わってきますよね。発する側も受け取る側も、お互いを「敬す」る気持ちがあれば、きっと伝わるんです。おまけのブドウひと房で、「いい時間だったなあ」ってあたたかい気持ちになれるんです。そのような施しをいただいた時に、心から言える「ありがとう」。これこそが、デジタル社会の中で、よい気持ちをもたらせてくれる鍵とも言えますね。


損得ではなく、他者への「思いやり」「気遣い」「手を差し伸べる」ことをもう一度意識してみたいと思います。それができること、「ありがとう」と言えること、そんな自分こそが「己を敬す」に価する自分だと信じて。

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