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精神的に液体であることを望む話

摂取物として、水が大変好きである。

好きな飲食物を挙げてと言われたら、まずは水と答える。
2番目は白湯で、3番目は綾鷹で、4番目はカルピスの牛乳割りである。


子供の頃から液体が好きである。
最近、人格としても固形になりたくないという欲求を自覚しはじめた。

執着を望まない理由は、おそらくここにある。


液体でいたい話の前に、私の人格の構成について話そう。

人は本質的に多重人格だと思っている。
というか、複数人格を認知できている人のほうが、精神的には安定する構造であると考えられる。

人格分裂というと異常者のように聞こえよう。
しかしそれは、その切り替えを制御できないときの評価であるように思う。

人は、無自覚か有自覚かに関わらず、3人格持つのではないかというのが最近の持論だ。

私と
OSと
それから、演者である。

この言葉だけで夏目漱石氏の著書を彷彿とさせるのはすごいものだ。

これは生来の性と人格を指す。
多くは遺伝子で定められた身体的特徴に則り分泌されるホルモンに強い影響を受けるが、必ずしも脳内の志向とは一致しない。

私は性同一性障害を疑った時期もあったけれどおそらく違っていて、
というのは一つずつ検証をしたからであるけれど、
この話は別の時にしっかりと書きたい。

いずれにせよ、自分の場合は身体性と性自認が一致している。
少し怖がりで、それでも冷静で、俯瞰的で、共感性よりも観察性の勝る、元来の私がこれだ。

女性ホルモンに振り回され寂しい怖いと涙することもあれば、それを制御してなお自我を中性に保とうと暴れ、OSに管理されることを選ぶ。
誰かに見つけて欲しいとどこかで思いながら、誰にも憶えていて欲しくないと強烈なスタンドアロンを望む。

支配欲は薄くとも、選択権を是が非でも自分のものにしておきたい自我がこれ。

私のOS

盾もなく、外界と接していた幼少期。
傷つき、喜び、混乱した感情を、一つずつ、説明を付して、一冊ずつ本にして、巨大な図書館にラベリングして納めていくことにした。

やがてそのライブラリは、非常に強大で、中性的で客観的なOSとなり、”私”を制御してくれるようになった。

それらはとても整理されているから、基本的に、どんな外部影響を受けても、それがどの類で、どの応答をすればいいのか、わかるようになった。

ライブラリを強化しておけば、未知のことでも動じない。
だから、やがて、外部からの反応を待たずに、自らライブラリを強化するようになった。


これが、できるだけ酷い描写の映画や小説を嗜むようになった理由なのだと思う。
”私”は、自らが鍛錬するより、より強固なOSに管理されたほうが早く安定すると判断した。
そして、自らを傷つけて、OSを進化させることを望んだ。

私を演じる演者

OSを進化させるのは、そのライブラリにまだない事象だ。
だから、ずっと、欲しいのは驚きだった。
ただ、それを”私”がそのまま受け取った時、処理方法をまだ解析できていないと、外界にその動揺を晒したままになる。

盾が必要だった。

それを憶えた”私”は、外部知覚と演技を、”私を演じる演者”に任せることにした。
初見の衝撃に対し、対応を解析するまでの間、架空の対応をしてくれるペルソナだ。botみたいなもの。

”私”は少し後方から”演者”を見ているから、混乱せずにいられる。
その場を演者に任せて、図書館で、本のまとめ方を考える。

遊びを好む

演者の対応は基本的にOSが判断してくれるけれど、”私”は”遊び”が好きで、そこに少し波をもたせるところに特徴があるかもしれない。

少し動揺を足したほうがいいだとか、嬉しさはそのまま出そうだとか。

そこに”私”の倫理観があって、そのほうがこの人が喜ぶだとか、そういう、サービス精神が随分旺盛で、そこは自分でも気に入っているところだ。

これは余裕がないとできない。
OSを強化すればするほど余裕ができる。
”私”が遊ぶ余地ができる。
だから、他人と接していない時間は、積極的に”私”を虐めぬいてOSを鍛える作業に使われる。

誰かに、できるだけその人が望む”演者”として接してあげたいから、”私”を精神的に抉ることを望むなんて、随分倫理的な人格に育ったものだと、
我ながら思う。

誰かの演技が嘘っぽい理由

演者を置いている人は多い。
自覚がある人と、無自覚な人がいる。

演者がいるが無自覚な場合は、言動が一致しないのでわかる。
演者を有自覚で置いているが、OS直結でSQL処理している人も、感情がこもっていないことがわかる。

男性の場合は、「これを言っておけばいいだろう」というのが表情に出ていて、女性の場合は、「感情を全面に出しておけばいいだろう」というのが身振り手振りに出やすい。
正直、ああ、ここまでがOS処理で、ここは演技で、これは遊び、というのが、とてもわかりやすい。

演者の存在とは、相手へのエチケットであり、優しさだと思っている。
青い時は、なかなかに使い方を間違えがちだ。
優しい嘘でも、それが愛なら、私は温かく感じる。

口調の使い分け

コスプレに近いものがあると思うけれど、3人格で口調が異なる。

私は時折、このような、バーの端で黙って酒を嗜む退役老兵のような口調を好んで使うけれど、これは中学生ごろからで、おそらくOSのものになる。
文章にする際は読みやすいように留意はしており、もっと拍車がかかっている時もある。
(心象で1人考える時にはこの人格が多い)

この時、一人称は”自分”が多く、最近は意識的に、演者へ投影する時の人格をOSに寄せるようにしている。

これは少し逆説的なことをしていて、外界からの攻撃に傷つくのが怖くて演者を置いたはずの”私”は、やがて防御力を上げて”OS”の人格に近づいてきた”私”の人格を、逆にそのまま演者に投影するようになったということ。

”私”の成長とも言えて、これは、本質的な自分が強くなると、内面と外面を一致させるようにすることができるようになってくるということだ。
言動不一致は、3人格の中でも起こると気持ちが悪いものだから、一致率が高まってきて最近はとても心地よい。

思春期からヒーロイズムに浸された私は、少年が精悍な男性へ抱く憧憬を、同じく胸に秘めてきた。

彼らの思考と同化する時間が長くなればなるほど、自分自身もそれに近づいていく。
OSは、私の憧憬の塊だ。
やや老齢の、穏やかさと鋭さを兼ね備えた、少し無口な、そんな存在になりたいという欲求がここに詰まっている。

バ美肉の逆をいっているかもしれない。
本質的に男性になりたいかというとそこまででは最近はないが、自分が得難いそれに憧憬を抱くものなのかもしれない。

”僕”と”わし”もたまに使うが、これは”私”が使う。
”私”の一人称は基本”私”だが、女性性に寄りすぎて気持ち悪く感じた時、意識的に中和させようと”僕”を使おうとする。
”わし”は、身体年齢を超えたい時に使っている気がする。

何者にもなりたくないから、その時一番強調されている性質と真逆の人格を演じようとする傾向がある。

液体でいたい

多面的すぎて表現しがたいとよく言われるが、
意図的にやっている可能性が高い気がしてきている。

特定されるほどの固形物になりたくないという感情がある。
OSから、液体でいろと管理してもらっている感覚だ。

これは防衛反応でもあり、好奇心でもある。
何者にも固定化されない方が、生存戦略的に望ましいから、より強くあろうとしている証明でもあれば、進化したいという痛烈な欲求の結果、固定化しなければそれを得られるとOSから指示を受けている感覚もある。

ということで、多面的であるだとか、掴めないだとか言われるのは本望というか、奏功している証明なので、自分的には結構嬉しい。

いやぁ、液体はいいなぁ。

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