見出し画像

アナ雪2を観て、人生考え直した話

個人的に最高だったアナ雪2

どうやったら最高峰に満足を感じる人生になるんだろうと思ったら、Frozen 2の感想を書く手が止まった。
(ちなみに個人的にとてもいい啓蒙創作だった)

なお、私を自己肯定してくれていたのは実はハリウッドだったんじゃないかという記事を途中まで書いていた。

命を削って生きたいという気持ちも。
大事なものを守って死にたいという気持ちも。
世界で最後の人類になってもどうやって生きるか自分で決めるという覚悟も。

なぁ〜んだ、全部ハリウッドが、心の原風景だったんだ。
と今日思った。
そりゃー、現実世界で出会うひとびとに、ときめかないはずだ。
血を流しながら敵と戦っているサラリーマンとか、氷の魔法煌めかせながら海に挑むOLさんとか、その辺歩いてないよね。

とはいえ、将来ウルトラマンになりたいですとかいうレベルとはまたちょっと違いそう。
それは厨二病に近いかもしれないけれど、私が憧れているのは、能力だとか、オラ地球を救ったぞみたいなことではなくて。

どれほど共感者がいなくて、傷ついても。
出会えた大事なものを失っても
ひとりになっても。
涙をぬぐいながら、震える足を叱りつけて、自らそれに立ち向かう姿勢である、と思う。

あれは、ずっと、私の中の”人間のあるべき姿”であり続けている。
だから揺るがない。
怖くない。
どれほど泣いても、一人でも、何度でも立ち向かえる。

ハリウッドはいつも私に見せてくれた。
自分に負けないんだっていつも思わせてくれた。
洋画観ない人はぜひ観て欲しいし、幼少期からの教材にしたほうがいいレベルだと思う。
これはもう、心の底から、幼少期から洋画に触れさせてくれた両親に感謝。

Frozen 2もとても良かった。
ジェンダー論を言い出すと止まらないので割愛するが、私が理想とする関係がそこにあった。

主題歌のinto the unknownも、結構好き。
(ちなみに今聴きながら書いている)

エルサもアナもクリストフも、その台詞のどれもが、自分が涙が出るほど欲しかった風景そのものだった。

こうやって生きていいという肯定。
ありがとう、ディズニー。
ありがとう、ハリウッド。
ここに一人、救われたひとがいます。

自分がキラキラする瞬間


ひとの、キラキラしている瞳がとても好きなのだけれど。

この間、やや久しぶりに、目がキラキラしているねと言われた。
長年の疑問に綺麗な回答が出せたときだった。

実は、そこそこの頻度で、目がキラキラしていると言われてきた。
まっすぐ覗き込むように、嬉しそうに、目を輝かせている自分がいるらしい。
そして、こういう反応をする人は、日本人にはちょっと珍しいらしい。


この瞳は、どうやら、レールを敷かれたフローの上では、顕現しない。
檻に入れられると絶望で死んだような目をするか、どのみち、いずれ脱走するようだ。
多くは檻を安全と知覚する中で、まぁ、こういう反応をする生き物に生まれついてしまったからには、仕方がない。


いろんな思考の旅を経て、綺麗にQ.E.Dしたとき。
それから、自分自身も未知に飛び込んでいるとき。
これがどうも、一番キラキラしているようだ。

まだ死にたくないとかいう未練がましい気持ちはもうないのだけれど、崖を登るほうがたまらないひとに生まれついてしまったからには、自分自身も、生き方を変えなきゃいけないらしい。

これは、愛するものを大事にできる時の、穏やかに、幸福にとろける瞳とはまた違うものなのだろう。

それでも、アナを安全な場所へ据え置いて、自ら荒海に飛び出すエルサの方に自分を重ねてしまったからには、少なくとも今はやっぱり、キラキラできる方に向かったほうがいいのかなぁとは思う。

もう、アナや国民に囲まれて愛されて、平穏な日々を変えたくないという気持ちと、未知に飛び込んで、そこに本当に誰もわかってもらえなかった自分が探し続けていたものに出会えるんじゃないかっていうキラキラと、あの葛藤に、めちゃくちゃ共感する。

エルサの、あの焦がれるような気持ち。
凍える海に打ち負かされて死んだとしても、命を賭してでも、それを見たいあの気持ち。そしてそれを見るまでは絶対に負けるものかという強い心。

もう自分を重ねてやまなかった。
マイノリティであればあるほど、あの欲求はとても強いと思う。
そしてそのゴールを誰かと結ばれることに置かなかったのもいい。
なんかナウシカの原作を思い出した。

パートナーがいらないという話ではなくて、愛するものがいる幸せはそれはそれであって、愛があることが前提で。
そして、隣に立つ者がいようがいまいが自分の信念を貫いてよくて、それが最上級でいいよっていう肯定が、嬉しい。

その信念を貫いて、強くなった自分がしたいことは、やっぱり愛するものの笑顔を守ることだから、愛もキラキラもどっちもセットなんだと思う。

だから、行くのを止めない、でも愛してるって言ってくれるアナは、本当に最高だと思う。

一緒に連れて行かなくてごめん。
隣にいなくても、いつも君のことを想っている。
どうか、残されても一人でも歩める強い人でもあって欲しい。
君の元へ、必ず、帰る。

そんな風にも思うから、アナが立ち直ってくれたのも嬉しかった。
愛している人には、自分がいようが消えようが、笑って生きていて欲しい。

相手へ感動をもたらすよろこび


未知と、Q.E.Dの、2つのよろこびがあるとして。
創作のよろこびはQ.E.Dに近い気がする。

何かに、自分だけの論理としてQ.E.Dが降りてきたとき。
その時の興奮や感動を、出来るだけ再現度高く相手に手渡すための創作物の作成は、めちゃくちゃ満足度が高い。

感情というものを、自分の腹に落ちる形で言語化できた喜びなのだと思う。
そして、自分が得た感動を、人にも再現したくて、共感や感動の感想をもらえたらそりゃ嬉しくてたまらない。

もう、上手いねとかそういうことよりも、もっと、相手に感動を与えられたと言うことが一番のご褒美である。


自分がキラキラするのと同じくらい、みんなにもキラキラしてほしい。
だからどうしたらキラキラするのか、知りたい。

この人は何が好きなのだろう。
どうしたら最高に、キラキラするんだろう。
働き方メディアをやっている理由も全てはこれな気がする。

本当は職業が何かなんて、どうでもよくって。
目の前のこの人の、こんな悲しそうな顔ではなく、嬉しそうに、旅立つ姿を見たいなって、いつも思ってしまう。

だから、隣に私がいるかとか、そういうことはどうでもいい。
いくらでも道を示そうと思うし、
その人を蝕むものを心の底から許せない。
ただただ、笑顔で手を振って旅立つ君が見たい。

だからきっと私は創作をやめなくて、いつでもアウトプットしたいのだと思われる。
アウトプットしたい全ての人は、きっとそうやって、何かに感動をもらってきたんじゃなかろうか。

未知に飛び込むよろこび

未知だったらなんでもいいのかなというところで行くと、例えば私はスポーツに全然関心がないし、料理もそこまでしないし、凝り始めるとアホみたいにのめり込むけれど、どちらかというと理論よりも実効性の方に関心が強いように思われる。

職業としての研究者は学生時代に選ぼうと思えなかった。
全然儲からないし、中身は結構学閥だったりするし。
そこに不自由があっては結局200%楽しめない。

そして理論を知ってしまったら、多分、試さずにはいられない。
待てない。
いつか変わったらという気持ちより、今、変わる瞬間が見たくて試してしまう。

一方で、高校・大学の頃、神話、天使と悪魔、妖怪、陰陽師などに、ものすご〜く傾倒していた。
音楽も漫画も宗教も、まぁまぁオタクとかいうレベルを超えて、軽く実質、研究者の域にはいると思う。
私の場合、知のよろこびそのものは、多分、結構、薄い。

あんまり学校という存在に惹かれないのも多分それ。
セミナーに行こうとか思わないのもそれ。
手を突っ込んで軽く火傷するくらいですむなら、今すぐ袖をめくりたい。
火傷はいつか治る。時間が惜しい。
火傷の痕すら研究成果になる。
この腕が研究に進化をもたらすなら、喜んでさし出そう。


これはもう京極夏彦先生が教えてくれたことだけれど、なぜ妖怪が生まれたかというその思考回路の裏にあるものを理解することが一番のよろこびのようである。

全ては概念だ。ツールだ。
言語もプログラミングも金融も経営も全部、ただの手段だ。
見たいのは、それを使って、ひとがどう変わったか。
ただただ、純粋に、それを見たい。

だから特定の事業にこだわりはない。
事業を考えるのが好きなのは、多分、実効性が高いから。
行動変化を起こすまでのサイクルが早いから。

関係者がどういう思考回路を経て、その事業が成り立っているかというのは、極めて複合的で最高の研究材料だ。

結論としては、研究対象として一番興味深いのが、ひとの思考回路と行動ということに見える。

文化人類学とは

多くの人に、キラキラして生きてもらうには、まずその行動を理解する必要がある。

最初に行動心理学を研究したいと思ったフックは、実はハンニバル(羊たちの沈黙)だった。
異常と呼ばれる人間も単純に、多くの人間が理解できるレベルでのブレイクダウン、すなわち言語化が進んでいないだけだと思っていて、この考え方は、これはこれで役に立っている。

ただ、カウンセラーになって、ただその人が死なないようにミラーリングし続けることには実効性をあまり感じない。
だから職業としての心理学者にもあまり関心が持てなかった。

大学の頃、経済学部だったけれど、金融に全く関心がなくて、文化人類学やら宗教学をとっていた。
ちなみに金融史は落としたほど権力への関心がない。
政治こそ文化人類学に近いが、宗教よりさらにひとを蝕むものだから。

上下関係によって組成される社会は、絶対数での繁栄には寄与したかもしれないが、精神的進化においては、失敗したモデルに見える。

同じ目的を達するにしても、違うアプローチが可能なのではないかと思っている。
ちなみに文化人類学を調べると以下のようだった。

・進化など生物学的研究:自然人類学
・社会や文化などの研究
 ┗北米での呼称:文化人類学(Cultural Anthropology)
 ┗欧州での呼称:社会人類学(Social Anthropology)

う〜ん、きっとこれらは地政学にも紐づいていて、日照時間だとか、そういうものですら思考回路に影響を及ぼすに違いない。

しばらく、フィールドワークをして生きたいなぁと、ここ数週間、しみじみ思ったりしている。

様々な要因をまとめて、どういう条件下でどういう思考回路と行動が起こるかを理解したら、一撃で、最高に効率的に、満足度の高い生き方を実現できる、高度な社会が作れるのではないか?
これは共産主義も民主主義も社会主義も超えて、新たな価値観の創設になりはしないか。

こんなの、めちゃくちゃ最高で、人生を捧げる価値を感じてやまない。
来年の課題はどうやら、世界を旅しながら、それを実現することのようだ。

これを職業にするとなると、どういうことになるのだろう。
実質的な研究者であること。
キラキラを最大規模で生み出すこと。

やっぱし一念発起して、クリエイターに舵を切るのが、一番早いんだろうか?なぁんて、思ったり。
しばらく、調査をしたり、いろんな人と会話をしながら、また人生の旅をしてみようと思う。

おもしろい!と思ったらサポートいただけると喜びます🦊💖