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誰かがいるから「おめでとう」って言える。

誕生日やら結婚式のおめでとう動画を撮る機会が増えてきた。

どうせならクスリとした笑いを取らなければという使命感にかられる。髭を剃りながら星野源を歌ったり、シャワーを浴びながら永遠の友情を誓ったり、ふんどし姿で川から魂のおめでとうを叫んだり。体を張るといえば水場だという先入観が垣間見える、、。

十五秒程度の動画に、ときには一時間以上かけて撮影している。撮影している時いつも思うことがある。お祝いの感情は、その人がいないと湧いてこないモノだということだ。

誰かをお祝いする、またはお祝いされると両方ともが幸せな気持ちになる。そうならない場合もあるが、ある程度の関係性ができていれば嬉しいモノだと思う。少なくとも、ぼくは嬉しい。

今年の誕生日に、久しぶりの友人が連絡をくれた。その時、あ、覚えていてくれたんだ、という大きな嬉しさを感じたことを覚えている。これは、ぼくが人の誕生日を覚えるのが苦手だから、余計にそう思ったのかもしれない。誰かの中に自分の存在が少しでもあるのだと感じることに、安心する気持ちがあったのかもしれない。

なんとも言えないが、とにかくその時とても嬉しかった。だからぼくは可能な限り全力でお祝いしようと決めたのだ。

もしかしたら自己満足かもしれない。自分が嬉しいと思うことが必ずしも相手が喜ぶとはいえない。そういう気持ちは振り切って、その他もろもろ振り切ってお祝いする。目立ちたいとか、いいこと言おうとか、自分のほうに向いた矢印もぜんぶひっくり返してお祝いする。そうすれば自然とみんな喜んでくれるものだと思う。

「感謝の気持ちを持っている時が、一番精神がフラットになっている状態だ。」と、うちのボスが教えてくださったことがある。何事も中庸が一番いい状態なのだ。ぼくはお祝いの気持ちもそれに近いものを感じる。

何にしても、お祝い事が増えることはいいことだ。

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*友達っていいな。

*このお二人にも祝福を、


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