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アボカド

アボカドは、基本的に輸入品で栄養価の高い食材であるがゆえに、基本的にあまり安く売られていない。
ただ、近所のスーパーでは比較的安く売られている。
ぼくはアボカドひとつにほぼすべての栄養が凝縮されていると信じ込んでいるので、他の野菜たちには目もくれず、迷わず買い物かごに放り込む。

アボカドは、別名「森のバター」とも言われるが、命名した人のセンスにはあっぱれだ。
これほどまでに端的に且つ的を得た別名があるだろうか。
バターを入れれば、大抵の料理はそれなりに美味しくなることは周知の事実だが、アボカドもバター同様どんな食材にでも合う。合わないものの方が少ないかもしれない。

アボカドの栄養価の高さには感服する。
良質な脂肪が含まれ、ビタミンも豊富に含まれている。
食べないわけにはいかない。
アボカドひとつで、ほぼすべての栄養が凝縮されているといっても過言ではない。
冒頭でも書いたように、そのことをぼくはまるっきり信じ込んでいる。
アボカドは本当にすごい。

アボカドについてべた褒めしているが、しかしアボカドに対してモノ申したいこともある。
「半分に割るまで実が食べ頃かわからない」
アボカドを買って調理したことがある人ならわかってもらえるだろう。

日本で出回っているアボカドは、熟すと外側の皮が緑色から黒くなっていく。
皮が緑色でも食べられるが実は固く、追熟する必要がある。
熟しすぎると今度は実まで黒くなっていく。
食べ頃の丁度いいアボカドの状態を見極めるのは中々難しいものである。
判断基準は皮の色、あるいは触感くらいだろう。
たったそれだけで判断を迫られる。
それにたとえ色と触感ともに「あたり」だと思って買っても、割ってはじめて「はずれ」に気付くことも少なくない。

100%「あたり」である保証はどこにもない。
毎回「あたり」だと確信して買うものの、割ったときの「はずれ」の感覚にそれが過信だったという事実を突きつけられる。
アボカドの実が食べ頃かどうかは、半分に割るまで分からない。
割る前までは「あたり」だと信じ希望に満ち溢れているが、割った後に「はずれ」であることを知り絶望する。


アボカドは人生の縮図である。


人生には、あたりもはずれもある。
やってみてはじめてわかる。
やってみる前は、いつだって希望に満ち溢れている。
きっと今より良くなることと信じて疑わない。過信にも似た自信とともにやってみる。

やった後にわかったこと、感じるもの、思うことがある。
「あたり」つまりうまくいくことや成功することもあれば、一方で「はずれ」つまりうまくいかないことや失敗することもあるだろう。

ひとは成功と失敗を繰り返して成長していく生き物である。
成長には、成功も失敗もどちらも必要な栄養で、どちらかが欠けていては成長はしない。
何事もやってみなければわからないことだらけで、始めなければ始まらないのだ。

やっていくうちに、これは「あたり」だな、これは「はずれ」だなと分かるようになっていく。
それがいわゆる経験や勘というものだ。
やってみて気づいたことを貯めていくことで、人生の経験や勘は創られていく。

アボカドから人生の教訓は得られた。
「人生とはこうだ」とそれっぽく言うこともできる。
だがそれらを語るにはまだ若く青すぎる。
追熟する余地はまだまだある。
食べ頃はもう少し先のようだ。

#エッセイ #アボカド #人生


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