見出し画像

神様や仏様に手をあわせるときにたまに思うこと。


小さいこらからだと思う。
僕より長く生きている人を見ていたからだと思う。

神社やお墓、神様や仏様へお賽銭やお供えものをするときに、もったいないからこれでいいという感覚がある。僕の勘違いだと思う。長年の。

もったいないから…ということを言われていたような気もする、しかしこれは僕の勘違いだと思う。

よくみかけたような、といっても、よくというほど神社へ行ってないと思うが、お賽銭は1円とか10円を入れて、日ごろつかわわないお金を入れていた。

なんでかなと思ったと思う。でも、そうしてるからそうなんだろうなと考えて同じようにしておく。

僕の世代は結構多いと思う。
なんでかな…と思うと、それを聞くとか調べるとか、あまりしない。

近くの自分より長く生きている人を見て、察して判断する。僕の勘違いだと思うが…

判断というようなことでははいが、
だまっておくみたいな感じ。

だから、お賽銭は、一円とか使わないお金を入れるのが当たり前。となる。みんなしてるからと僕の勘違い。

五百円とか入れていたら、なんで?と言われそうで、それが面倒でやらない。これも僕の勘違いだと思うが…

面倒というのは、結局は叱られる、キレられるからそれに疲れてしまうから。これも勘違いと思う。


話をもどすと、
今日、仏壇のご飯をついでいて思った。
もったいないから少なめにして…みたいな声が自分の中から聞こえてきた。

もったいない?そうか?
僕さんは、もっともったいないことしてないか?
よく思い出してみて、このご飯よりもっともったいたいことをしてきてないかい?

と聞こえてきた。

タバコとかお酒とか無駄に買ったものとか、使わないで捨てたものとか、食べなかったものとか、
それにくらべると、仏壇のご飯はたいしたことないよね。

と聞こえてきた。

仏壇のご飯がもったいないから、少なめに…と聞こえてきたのは、

あらためよ。ということもあるのかもしれない。

なんでも、大切にするとか
大事にする。

ここはあたりまえで、その先のことをしっかりと考えなさいよ…と言われたような、聞こえたような、そんな気もしながら、

もったいないから、
大切、
大事、
丁寧に

ここは通過点であって、ゴールではないなと。
ここで考えて思いついた先は、

ありがたいと感謝の気持ちになり、心から手を合わせてたり、ありがとうと言えることなんだろうなと思い着いた。

何かがうまくいかないとき、つらいとき、悲しいときに、なんの手立てもなく、どうしようもできない、もう無理な時。

なんのブレもなく、心から強く、祈る、お願いするときのような、自分。
そのときは、世界を変えることができるくらいの力で祈る。手に汗が滲むくらいに手を合わせて…

今日は、仏様やご先祖さまから、

ありがたい、と感謝をすることを教えていただいたような気がして、

ご飯をついで、しっかりと感謝の気持ちで手を合わせました。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?