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少年の国 第27話 釜山の病院

 翌朝、僕はハンメの手を引いて釜山行きのバスに乗るため町に向かった。途中で龍大の家に立ち寄り、彼に理由を説明して、ハンメと一緒にバス停のある幹線道路へ向かった。

 バス停でどれだけ待ったことか。やはり戦争の影響か、なかなかバスは来ない。やっと来たバスは満員だった。ガイドと思われる女性が「満員だから乗れない」とあしらうように僕とハンメを追い払おうとしてきた。僕は必死で叫んだ。

「叔父が釜山の病院にいます! 負傷兵なんです。ハンメの息子が死ぬかもしれないんです。お願いですから乗せてください!」

 その言葉に、ガイドさんはしぶしぶ満員のバスに僕とハンメを押し込んだ。ぎゅうぎゅう詰めのバスの中で、中年のおじさんが話しかけてきた。

「大変だな、坊主。叔父さんはきっと大丈夫だ。ちゃんと見舞ってやれよ。何もないが、これでも食べさせてやってくれ。」

 おじさんはそう言って、小さな包みを渡してくれた。

「ありがとうございます」

 僕は見知らぬ人の親切に涙が出る思いだった。バスはなかなか進まない。いつもよりずいぶん時間がかかって釜山に着いた。

 釜山の町は蔚山とは比べものにならないくらい、たくさんの人でごったがえしていた。僕たちはようやく病院にたどり着き、入口で叔父の名を告げると、忙しそうに走りまわっていた看護婦さんが病室を教えてくれたあと、廊下の奥へ走って行った。

 祖母は気持ちがはやるのかいつもよりしっかり歩いていた。廊下には消毒薬のにおいと何とも言えない腐敗臭が満ちている。到る所でうめき声が響いてくる。

「ハンメ、あそこだ」

 叔父がいるはずの病室に入ると、僕の背筋はゾッと震えあがった。

 ベッドがいくつあるか、すぐには分からないほどの大部屋に、おびただしい数の負傷兵が寝かせられている。ベッドが足りないらしく、床に毛布を敷いて寝かされている兵士もいる。入口近くの床の兵士は、腹を撃たれたらしい。腐敗臭がひどい。撃たれた傷は化膿し、膿だらけだ。その膿が動いているように見えて怖かったが、目を逸らすことができない。見えて来たのはウジ虫だった。

「うわっ!」

 僕は思わず声を上げた。

「驚いてないで、早く萬守を捜しておくれ」

そうだ、ハンメはわが子を見つけるのも大変なのだ。勇を奮って僕は歩き出す。うめき声があちこちから聞こえて来る。病室の中央付近まで来たとき、聞き慣れた声がした。

「海守、こっちだ」

「あっ、萬守叔父さん! ハンメ、叔父さんだよ!」

「海守、どこだい?」

「こっちこっち」

 ハンメの手を引いて叔父のベッドに近づいた。意外に元気そうに見える。叔父は右手を差し出して迎えてくれた。叔父は左腕の下部の貫通銃創で、他の兵士からみれば軽傷だったらしい。

「オモニ、僕は大丈夫だよ。心配かけてすまなかったね」

「大変だったね。それでこれからどうなるんだろうね?」

「うん、この左腕では銃も持てないから、早晩除隊になると思う。心配しないで、家で待っていてください」

「本当に大丈夫なんだろうね」

 僕はバスのなかでもらった包みのことを思い出し、叔父に差し出した。

「さっき、バスのなかでもらったんだ。『食べさせてやってくれ』って言ってたから、食べ物だと思うよ」

「片手じゃ開けられないから、開けてみてくれ」

 僕がその包みを開いてみると、なかから肉の煮染めたものが出て来た。

「俺はここで食事が出るから、これは海守が持ち帰ってハンメと一緒に食べなさい」

「でも……」

「いや、いいんだ」

 押し問答になったが、他の兵士が見ている前で、長く続けるわけにはいかない。僕はもう一度包みを作り、持って帰ることにした。

「それより、あまり長居すると、蔚山に帰れなくなるぞ。バスは本数を減らしているはずだから」

 萬守叔父の言葉に、僕たちはしぶしぶ腰を上げた。しかし、叔父の危惧は現実になってしまった。バス停にたどり着いたときには、最終のバスは出てしまっていた。夜になるとゲリラの襲撃を恐れて、バスの運行は見合わせることが多くなっていたのだ。

 薄暗くなったバス停で、僕はハンメに尋ねた。

「どうしよう? ハンメ」

「海守、この辺に見える大きな家を探しておくれ。泊めてもらえるよう頼んでみるよ」

 ここなら泊めてくれるかと思われる家に祖母の手を引いていく。ハンメは玄関口で事情を説明し、泊めてくれるように頼む。しかし、戦時下では、親切な人ばかりではない。年寄りと子どもなのだから、家に入れても危険なことはないはずなのだが、こんな状況では警戒心が強くなるのも当然だ。

 五軒目でようやく泊めてくれる家が見つかった。ハンメの説明に、「子どもがかわいそうだから」とその家の方が言ってくれたのを覚えている。ハンメに言われて、僕は肉の包みを差し出した。ささやかなお礼のつもりだった。

 釜山の夜はいかにも心細かったが、僕とハンメは翌日蔚山の町へ戻ることができた。町に着くと大きな横断幕が僕の目に飛び込んできた。それは龍大が作った例の横断幕だ。

幕の元へ近寄って行くと、龍大の隣には松葉杖をついた永吉の姿もあった。

「永吉、大丈夫なのか?」

「ああ、家でじっとしてても退屈だしな」

 永吉は以前のように明るく笑っていた。

「海守!」

 僕の姿を見つけた善花が心配そうに近づいて来た。

「萬守叔父さん、どうだったの?」

「うん、腕を撃たれたらしいけど大丈夫、命には別状はないって言ってたから」

「そうなの……」

「そっちは、まだ手がかりもないの?」

「それがさっきね、龍大くんの幕を見た人が話しかけてくれたのよ」

 僕は一瞬目を輝かせた。

「師範学校は爆撃されたけれど、善基兄さんたちが過ごしていた寮の方は無事だったらしいの。ただ北の侵攻があまりに早すぎて、ソウルから出られたかどうかは、分からないって」

「そうか……」

「でも海守や龍大くんのおかげで、少しでも希望を持てるお話が聞けたから」

 善花の言葉に龍大は大きな幕を抱えながら、照れくさそうに笑っていた。

「それじゃ俺もハンメを家に送ったら戻ってくるから」

僕は龍大たちに告げると、ハンメの手を引いて家路に急いだ。

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