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少年の国 第三話 朝鮮から日本へ…

●第三話 朝鮮から日本へ…

 僕が生まれて間もなく戦争がはじまったのだから、子ども心には戦争が普通のことになってしまっている。

それ以外の楽しい思い出なんかほとんどないのが当たり前だが、ただ唯一、楽しかったことがある、それは映画に連れて行ってもらったことだ。誰に連れて行ってもらったのか正直覚えていないが、映画館の暗がりと、スクリーンの脇に弁士がいて、小気味よいテンポで映画の内容を説明していた事だけ覚えている。

 多少歴史を調べてみると、昭和十年代になると、無声映画は姿を消し、すべての映画は「トーキー」と呼ばれるものになっている。何か特別な催しだったのかもしれないが、僕が見たものは無声映画だった。どんな映画だったかと聞かれると全く覚えていないが、戦争中の暗い世界でただ唯一楽しかったという事だけは、しっかり覚えている。


 それとは逆に、まだ学校に入る前の悲しい記憶もある。三番目の叔父夫妻には小さな女の子があった。まだ一歳くらいで、僕が遊ぶ時には、よくおんぶしていたものだ。その女の子が病気になり亡くなってしまった。今ならきっと助かっていただろうが、戦時中の混乱の中では、しっかりした治療も受けられず、本当にあっけなくこの世を去ってしまったのだ。荼毘に付されることもなく、この子は埋葬されることになった。近くの山の頂上に埋葬するために、叔父について登った坂道は今でも忘れられない。異国の山でひとり眠ることになった従妹は、地下で何を思っていたのだろう。


 もともと父は、韓国の慶尚南道の蔚山近郊の出身である。慶尚南道は朝鮮半島の南東部に位置する。東側は東海(日本海)に面し、北は慶尚北道に、西側は全羅北道と全羅南道に接している。南側には釜山港があり、海産物に恵まれ、農産物も米、豆、ジャガイモ大麦など豊かであり、半島の穀倉地帯である。後に大統領になった全斗煥(チョン・ドファン)や金泳三(キム・ヨンサム)もこの地を故郷としている。歴史的な背景もあり、かなり誇り高い人々の住むところだ。 

 その土地で父は、祖父母とともに農業を営んでいたのだが、一九三〇年頃大洪水に遭って家も家財道具もすべて失い、農地もめちゃくちゃになってしまった。比較的豊かな農民としての生活は崩壊した。持っていた山も手放さざるを得なかった。そこで、故郷で暮らすことを諦め、日本での生活を目指すことにしたのである。

 祖父は祖母と父を含む男ばかりの四人の息子たちを連れて下関に上陸した。その時の父は十七歳だったという。そして祖母のお腹には五番目の息子になるはずの子がいた。

 この時期の朝鮮半島は、日本の支配による急激な工業化の進展、世界的な不況の影響で、多くの人が故郷を離れ、都市や日本を目指して移住する人が増えていったようだ。これは半島全体の傾向だが、なかでも慶尚南道は、この傾向が顕著だったようだ。 ある史料によれば四〇%もの人が移動したとも言われている。やはり、農村の受けた災害の影響が大きかったのだろう。祖父母と父の日本移住も、この大きな流れのなかでの決断だったことになる。 

 しかし、何をして暮らしていくのか、目途が立っていたわけではない。当然ながら家もない。さまざまな経緯はあったようだが、橋の下をねぐらとして暮らす、今で言えば「ホームレス」のような生活が続いた。しかし、同じような境遇の同胞が少なくなかったであろうことは、容易に想像できる。

 祖父と父は土木作業の現場で働き、かろうじて生活していた。そんな家族にさらに大きな不幸が襲いかかった。作業中の現場で土砂崩れが起き、祖父がそれに巻き込まれて他界してしまったのだ。

 まだまだ若い父にとっては、祖母と兄弟の暮らしを背負うのは苦しい。やむなく岡山に移り、京都にたどり着いた。ほとんどは徒歩による移動だった。すべては少しでもいい稼ぎ場所を探しながらの旅だった。祖父の遺骨は、祀る所もなく、持ち歩いていたが、ある時父は決断をして、川に流してしまった。 韓国では年長者への畏敬の念が強い。儒教の影響であるが、とくに祖先を祀ることは最も大切なことと考える民族である。時には親のお弔いには巨額の金銭を費やすことも惜しまない。その風土で育った父が、自分の父親すらきちんと葬送できないのだ。どんなにかつらい決断だったのだろう。 


 それでも京都に流れ着いた時には幸運なこともあった。母という女性に巡り会い、結婚することができたのだ。その京都で僕は生まれた。母は釜山の出身で、父よりはずいぶん前に日本に移り住んでいたようだ。五歳の頃、横浜に住んでいて、関東大震災に遭遇した話を聞いたことがある。 

 この時、混乱に乗じて、朝鮮人が井戸に毒を入れたというデマが流され、いわゆる「朝鮮人狩り」が各所で起こった。朝鮮人であるかどうか確かめるために「十五円五十銭」と言わせ、正確な発音ができないと、それだけで朝鮮人とみなされ、竹槍で殺されるという惨劇が起こった。 なかには、地方出身の日本人が標準語の発音ができないため、犠牲になった人もいる。母と外祖母も危険な目には遭ったが、親切な日本人のおかげで命を救われた。

 その後、僕が二歳の頃に横浜の南部に住むようになった。これもより良い生活を求めてのことだったのだろう。決して立派とは言えないが、一戸建ての家での生活が始まった。

続き 第4話 戦時下の暮らしへ↓


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