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少年の国 第4話戦時下の暮らし

●戦時下の暮らし

 戦争の推移は、今では誰でも知っているように、日本の敗色がどんどん濃くなっていった。もともと無謀な戦争である。人々の暮らしも当然のように苦しくなっていく。とくに食糧の確保は一番の問題だった。

 その点、わが家は他の人々より恵まれていたようだ。詳しい経緯は分からないが、父は時にどこからか牛を丸ごと一頭手に入れてきて、近くの山の中で処理し、それを売っていた記憶があるからだ。そんな時の父は上機嫌で、僕にも「食べろ、食べろ」と肉を分けてくれる。母もにこにこしていた。家族に十分な食事を与えられるのは、当時では何よりの喜びだろうし、父からはどのくらい儲けたのか聞いていたのかもしれない。

  後述するが、解放後故郷に帰るための資金などは、こうした仕事で蓄積されたものだったのだろう。「お父さんは、戦争に行ったことはないの?」と尋ねたことがある。 しかし、その返事は素っ気ないものだった。父にとっては日本は「祖国」ではないし、軍隊は自分の軍隊とは思えなかったのだろう。 徴用されてトラック島まで行ったことがあるそうだが、それも短期間のことだったと聞いた。ふだんは家に居ることが多く、何を生業としていたのかはよく分からない。

 母はと言えば、山あいにある自宅からお店のある町場まで、月に二、三度は買い物に出る。その帰り道、買い物した食品などを、故郷の風習に従って、頭の上に載せて歩く。それに気づいた子どもたちが「朝鮮人、朝鮮人!」とはやし立てる。なかには石を投げたりする乱暴な子どももいる。 そんな時、母は荷物を降ろすと、逆に子どもたちを追いかけて反撃に出る。そんな出来事が数回に及ぶと、子どもたちも母の恐さを知り、おとなしくなっていった。

 恐かったのは、空襲もそうだが、父の動静を警戒するためだろうか、日本の憲兵が、腰に日本刀を佩き、時々巡回に来ることだった。その威圧的な態度と腰の刀がたてるガチャガチャという音が、幼い自分にはとても恐ろしいものに思えた。

 もう一つの恐怖は、家の前にあった飯場だった。ただでさえ、気の荒そうな屈強な男たちである。その男たちが、夜になれば、毎日のように酒を呑み、大声を発し、博奕に興じる。当然、喧嘩もあるし、時には流血の事態に至った。幼い僕には、意味もなく恐いものだった。 

 実は、その飯場で大声を挙げる男たちの一人が父だった。父はふだんは厳格な人で、子どもたちが悪さをすると、竹の細い棒でふくらはぎを叩いたりして叱る人だった。 しかし、一方で酒が好きで、花札博奕が大好きという側面もあった。祖父が亡くなった後、母親と弟四人の生活を守るのは大変な苦労であったろうし、日本社会の偏見と差別に立ち向かいながらの暮らしは、さらに苦労を重いものにしたのだろう。 

 子どもの僕ですら、あれだけの差別に直面した。若くして一家の生活を支えなければならない立場に立たされた父の苦悩は、大変なものだったろう。ましてや利害関係を伴う大人社会での陰湿な差別が、父の心を荒ませたとしても、簡単に非難できることでもないだろう。

 その苦労を少しでも忘れさせてくれるのが、酒と博奕だったのではないだろうか。 

 父の飲んでいたのは、主に自家製のどぶろくだった。それを延々と際限なく飲み続ける人だった。 どぶろくを飲んでいて起こるのが、母との喧嘩だ。問題はいつもお金のことだった。 

「あんた、また家のお金を持ち出したでしょ。またしょうもない博奕に使ったんだ」

「うるさい。俺が自分で稼いだ金を何に使おうと、俺の勝手だ!」

「何が自分で稼いだお金ですか。私の稼いだお金にまで手をつけてるじゃないですか」

「黙れ! お前に俺の気持ちが分かってたまるか」 

 そんな言葉が飛び交い、時に物が飛び交う。僕はひたすら恐ろしく、部屋の隅に小さくなっているしかなかった。 ある日の食事中にいつものように喧嘩が始まり、父は食卓にあった熱い味噌汁の入った椀を母の顔に投げつけた。 母がかろうじて顔をそむけたため、味噌汁は母の髪の毛にあたった。相当熱かったはずだ。

「お母さん、大丈夫?!」と叫び声を挙げた時には、母の顔は味噌汁を浴びて、ひどいことになっていた。 

 この「事件」は僕にとっては、かなり衝撃的なものだった。それ以来、父の存在がひたすら恐ろしいものに変わってしまったのだ。父が帰宅すると、顔を合わせるのが恐く、どこかに身を隠すようになってしまった。母に味噌汁を投げつけた時の恐ろしい形相が忘れられないのだ。 あまりの恐ろしさに、押入れに籠もってしまうこともあった。その恐怖感は後々まで続き、僕が父に馴染むことは少なかったし、父にとっても「可愛げのない」子どもだったのかもしれない。

 父の博奕好きを象徴するような事件がある。警察の取締りが厳しくなると、仲間と一緒に船を借り、海上に出て博奕をし、警察の目を逃れていたというのだ。ここまでいくと、何と言っていいのか分からない。 

 母は、先にも書いたように、町場の子どもを追い払ったり、学校に怒鳴り込んだりする、性格的にはかなりきつい人である。しかし、社交性もあり、子ども心にも美人だと思ったし、周囲の人には好かれることが多かった。 

 幼い頃から日本に住んでいたせいか、日本の料理は上手だったし、当然のことながら、韓国料理も得意だった。戦時中の食糧難の時でも、子どもたちにだけはきちんと食べさせようと自分は我慢する人だった。ある時など、ご飯を家族に食べさせて、自分は釜の底に残ったおこげを食べようとしていたら、それさえ僕たちに取られてしまったこともある。それでも怒られた記憶はない。 父に対する反発とは逆に、母への思慕は強く、のちに韓国ですごした時も母の不在は、僕の心に大きな空白感をもたらした。

 母は例の家の前にある飯場のご飯炊きをしていた。数十人の屈強な労働者の食事だから、大きな釜でご飯を炊く。いたずらが大好きだった僕が、炊きあがった釜の蓋をあけ、そこに砂を入れてしまったことがある。当然のごとく大騒ぎになり、僕は父からふくらはぎを竹のむちでさんざん叩かれた。

 母は、子どものために尽くす人だった。決して明るいとは言えない電灯の下で、子どものための縫い物をしてくれる姿も印象的だった。

続き第五話 祖国への旅立ちへ↓



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