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読書メモ:プラグマティズム入門

第1章「実験主義者」パース ― デカルト主義の拒絶
ジョン・マーフィー/リチャード・ローティ(1990年)/ 訳者:高頭直樹


プラグマティズム入門 パースからデイビッドソンまで

本書はジョン・マーフィーの著によるプラグマティズム入門書であるが、マーフィーの急逝を受けてローティーの手により出版されたものである。本文は全てマーフィーの原著であるものの、序はローティが記したものだ。第1章はチャールズ・パース、プラグマティズムの創始者とされる、による「デカルト主義の拒絶」である。

第1章 チャールズ・パース デカルト主義の拒絶

1860年代、パースはダーウィンの進化論を研究していた二人の研究者、チョーンシー・ライトとフランク・アボットの思想に大きな影響を受けた。彼らは、デカルトを、近代哲学を誤った道すなわち懐疑主義へ導いた張本人であるとみなしていた。そしてパース自身も1868年に発表した論文によって、反デカルト主義の論陣に加わることになった。

「観念」とは、精神という内的空間に現れる心的イメージ(mental picture)を指す。全ての思考は対象として観念を持つ。つまりデカルトが提示したのは、肉体的・知覚的感覚、数学的真理、道徳、気分その他われわれが心的(mental)と呼ぶものを全て観察の対象とする統一された内的空間という概念「観念という観念(the idea idea)」なのである。観念の観念を持つことは、われわれは内省する(自らを省みる)能力を持つということである。

パースは、「われわれはそのような内省の能力を持っていない」と反論する。すなわち、「われわれの自らの内的空間に関する知識も、全て外界の事実を観察することから導かれたものである。そもそも、われわれは自身の存在を知るための直観的能力も持っていない。さらには、ある観念が他の観念によって決定される観念であるか(媒介的認識)、あるいはそうでないか(直観的認識)を区別して認識する直観的能力など持っていない。」と主張する。

「哲学が普遍的懐疑から始まらなければならない」ということを否定する

ここでパースは次のように主張する。「われわれは全面的な懐疑から始めることなどできない。現実に持っている様々な先入観から始めなければならないし、それらの先入観を疑いうるものであるという考えに思い至る者などいない。そうした普遍的懐疑を持ち得るとすれば、それは自己欺瞞であるか、本当の懐疑ではないだろう。デカルトの方法に従い、型通りに全てを放棄した上で信念が形の上で回復されたとすれば、満足を得るとしても無用な準備に他ならない。」

本当に疑いを持つのであれば、明確な疑いを受け容れるべき明確な理由を持つべきである。そうでなければ、その疑いを調査する思索は無益であるばかりか、出口を見失うことにもなるだろう。

「確実性の究極的検証は個人の意識の中に見出されるべきだ」との考えを否定する

パースが拒否するこのような考えは、デカルトの判断基準「何事であれ、私が明確に確信することは、真である」に現れている。しかし、実験主義の精神に拠って立つパースは、「知識、真理そして実在について語るのであれば、その検証は探究のコミュニティーに根拠を置くべきであり、個人の意識に根拠を置くべきではない。」と主張する。科学の方法においては、一つの理論が提唱されると、その理論はコミュニティーによって試され、意見の一致に至ったもののみが正式に理論として受け入れられる。このように受け入れられた理論については、確実性の検証の問題は余計なものとなるのである(反証あるいは重要な疑義が提唱されれば同様にコミュニティーによって試され、その反証や疑義で一致するまでは理論は維持される)。

パースの「真理の極限概念説」は、科学的方法の前提である共同体主義的観念論に根拠を見出すものである(クーンの「パラダイム論」にも通じる考え方であろう)。

「哲学理論が一本の推論の意図であるべきだ」との主張を否定する

パースは、このようなデカルトの主張についても、同様に実験主義の精神に基づき拒絶し、「むしろ議論の多様性・多種性を信頼すべきであり、哲学は、成功を収めている科学に範を求めるべきである」と主張する。

ちなみに、ローティは本書の序で、こうしたパースの(同様にパトナムの)姿勢について、「自然科学に特権を与える ― 人間の様々な目的を実現するための他の手段以上のものと考える」ことで(ロックやウィリアムズの)「不幸な欲求」を共有する試み、と切り捨てている。

2024年10月11日

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