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ジャニーズの性的虐待を継続させた社会の価値観

強姦(ごうかん)とは、相手の意思に反し、暴力脅迫、相手の心神喪失などに乗じて性行為強要することである。性暴力、性的暴力、性的暴行の一種である。

2017年7月13日には法改正により強姦罪は廃止され強制性交等罪に置き換えられた。強制性交罪では被害者が男性の場合や、肛門や口腔を犯しまたは犯させた場合も適用対象に加え、法定刑も5年以上の懲役となった。男性器が膣、肛門または口腔の中に挿入されることにより既遂となるから、主体には一人以上の男性器保有者が必要と解され、単純な強制レズビアン・セックスは強制わいせつ罪を構成するにすぎない。また、さらに監護者の立場に乗じて18歳未満の者にこれらの行為を働いた場合(同意の有無を問わない)にも同じく処罰されるようになった(監護者性交等罪)。

Wikipediaより、一部を抜粋、省略

ジャニーズの性的虐待の問題は単に一企業のスキャンダラスな問題ではない。子どもに対する権利侵害が、日本においてしばしば問われずに終わることを示す象徴的な事件である。

ジャニーズ元社長による多数の少年に対する性的行為は、メディアにおいて、性加害と記述されていることが多い。性加害という言葉は、強姦や虐待という言葉よりも、犯罪性が薄い印象を与えているのではないか。加害者は死亡しているから、強制性交罪として罪を問うことはできないのかもしれない。しかし、国連人権理事会の作業部会が、政府に被害者救済を要請しているように、この事件は、日本だけでは解決が難しい、国際的に救済が求められるほどの大きな事件なのである。


児童虐待防止法では、加害者が親(に相当する者)とされているから、本件において、「虐待」という言葉が使いにくい。
(児童虐待防止法の記述そのものを見直す必要があるのではないかと、筆者は考えている)

しかし、しばしば「親のような存在であった」と記述される社長による性加害は、児童虐待の4類型にあてはめて言えば性的虐待にあたる。もし親によるものでなければ、それは「性暴力」「強姦(レイプ、上述のように、強制性交等)」と呼ばれるものにあたる。しかし、今回、それらの言葉は出てこず、性暴力ともほとんど言われていない。

一人のカリスマの性的嗜好により起きていた、一件一件が大きな社会問題になっておかしくない重大な虐待事件の数々が看過され、多数の子どもたちの人生にトラウマが与えられたが、その事実は多くの大人たちによって長年にわたって是認・黙認され続けた。

それは、日本において、体罰や痴漢が問題視されてこなかったこととつながっているのではないか。

今回の事件は、ジャニーズ元社長という個人の問題であったが、実は組織の問題であり、私たちの社会の問題であったということを私たちは振り返らなければならない。


本来、取り上げられるべき少年たちの声は、たとえば元フォーリーブスの北公次氏のように、被害を書籍化、動画化して訴えた者がいてもなお、届かなかった。書籍はジャニーズ事務所の暴露本として何万部も売れ、その中に記述された性加害は、大人たちが読んだにもかかわらず、誰もこれを子どもの人生に大きな影響を与える重大な虐待問題であるとは認識できなかった。その後、最高裁が元社長によるセクハラ被害の真実性を認めてもなお、子どもの人権問題として扱われることもなかった。

「子ども」の声は無視され、アドボケートする者はおらず、情報として消費されたのみだった。

この件も含め、繰り返しウワサになった性加害を「報道しなかったメディアの問題」と指摘することは確かに必要であるが、私たちの社会にとってより重要なことは、これがメディアや芸能界の問題だけではないということである。
つまり、このように子どもの声が無視され、子どもの立場に立った支援がなされていないということが、私たちの日々生活する社会が抱えた問題であるということである。

多数の子どもたちが権力を持つ大人によって「よい生活」を餌に虐待されていても、誰もその問題に気づかないばかりか、そのことによってメリットを得たのだから黙っていなさいという社会なのである。

受験勉強しかり、スポーツしかり、音楽しかり。よりよい成績を取り、評価を得て、社会に打って出よ、と子どもたちは叱咤激励され、それと引き換えに多くのものを失っている。

「よい生活、つまり、名声や金銭的な豊かさを手に入れることができる」
という複数の大人たちによるささやきを信じた子どもたちが、自分の身体を提供して応え続けた。「そうしなければならない」と追い込まれた。逃げるという判断ができた者もいるが、それも、多くは被害をうけた後であり、その被害に対する補償はされていない。

大人による性的虐待を「通過儀礼」として子どもたちが受け入れざるを得ないとされることは、世界各国で見られる現象である。それは発展途上国のかわいそうな子どもたちに起きていることのように思われているが、日本でも目の前で行われていた。ジャニーズに特に関心を持っていたわけではない私にも「うわさ」は届いていたが、それはスキャンダラスな芸能界の一面としてであり、私自身も、かつては、これを虐待の現場の話として受け止め、「子どもたちの立場に立って」問題視する視点、声を上げる良識を持ち合わせていなかったと言わざるを得ない。

集団内の「性被害が起きていても問題視しない」慣習、
性被害を受けてでも、スターになることが幸せという価値観、

これらは、日本においてエデュケーショナル(教育)・マルトリートメントが継続していることとつながっていると私は考えている。

つまり、
子どもたちの心が傷ついても、勉強を続けさせれば、スターになれる、
という大人たちの信仰。
学校内で「エデュケーショナル・マルトリートメントが起きていても問題視しない」慣習、
マルトリートメントを受けてでも、受験に合格して称賛されることが幸せという価値観。

大人たちの期待に応えたい、親の望みを叶えて、自らもあこがれの世界に入りたい、苦しい家計を支えたい、自分の周りの(先生を含む)大人たちや友人たちに認められたい、という子どもの願いが利用された。

そして、のちにやっとの思いで声をあげた元子どもたちの、
助けてほしいという叫びは聞かれることがなかった。

子どもたちのアドボケットはおらず、むしろ、
子どもたちの声をスキャンダルとして流すことで利益を得ようとした大人たち、うわさして楽しむ大人たちがいた。

繰り返すがこれは、一つ一つが強姦罪(強制性交罪)として、追及されるべき事件である。

それを私たちは、いまだに
子どもの人権侵害であるという観点で論じていない。
犯罪という認識を十分に持ち得ていない。
子どもの商品化という視点で問題視していない。
見過ごしてきた大人たちの問題と受け止めていない。
一企業の問題としかみなせていない。

子どもは社会の宝である、とか、子どもまんなか、という軽い標語を使いながら、子どもたちの問題である、という視点を欠いている。

成功した少数者の陰に、多数のつぶれた者たちがいる。
成功したと思われる少数者の中にも傷がうずいている者たちがきっといるだろうけれど、それは過ぎたこととして目がつぶられる。

これは氷山の一角ではないのか。
日本において、子どもたちは、レイプされても守られない国なのではないか。PTSD症状を訴えても、聞き手がいないのではないか。子どもたちは自分で立件することはできない。そのまま傷つけないようにとの周囲の大人たちの配慮で(すでに大きく傷ついているのだが)なかったことにされているのではないか。

私は、これを日本社会に渦巻いている子どもたちに対する社会的マルトリートメントがなせるわざだと思う。

「社会的」マルトリートメントとは、みんなが持っている価値観が、対象を傷つける行為を正当化しているために、みんなが気がつかずに、よいことのつもりで不適切なことをしてしまっていることを示す言葉。

今回の事件においては、そもそも「よいことのつもりで」というのはなくて、「いたしかたがなく」とか「そんなにひどいこととは気づかずに」ということなのかもしれない。でも、その代償として「お金が入る、名声が得られる」という「よいこと」が待っている、という状況ではあった。

明日は、教育虐待を受けた子どもの親殺しについての取材が2件入っている。教育虐待についての取材は、9月に入って既に2件あり、8月からの継続も2件ある。教育虐待は親によるもので、今は、メディアの意識がそこで止まっているけれど、学校現場を含め、そうでないマルトリートメントがあちこちに存在している。私が教育虐待の取材を受けるのは、それらを生み出している背景にある日本の社会的マルトリートメントの状況を、私たちが意識して価値観の問い直しをしていかなければならないと考えるからである。


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