【脱線記事2】歴史系の学問とホモサピエンス全史

ベストセラーになった「サピエンス全史」という本を読んでいます。
出版当初、書店の最前列に並べてあったので、パラパラと読んだことはあったのですが、ウェって思ってそれ以降遠ざけていました。なにかの拍子に話題に上がると苦笑いですよね。
「史」と銘打つにはあまりにも恣意的な解釈が多い、というかそれに満ちている。飛躍させた部分の根拠があまりにも希薄。
何かしらの思考のパーツにするには、脆すぎる。
これは、マクロヒストリーという分野に属するらしい。
歴史の究極的な法則性を探求し、長期的・巨視的な傾向を見いだそうとする学問、だそう。
巨視的だから、だいたいでいいってこと?
著者は、ヴィパッサナーやったり、モシャブ(農業共同体)でくらしているそうで、言説は現在の自身の価値観に行き着かせようとするものですね。たぶん。
それはそれで悪いことではない。そもそも出版するってそういうことの手段の一つだし。それに、きっと方向的にはサステナブルなんでしょう。
むしろ、学術書として触れようとしたこちらに問題があるんですよね。人類史をテーマにした小説として読めって話だと思うんです 笑
ただ、著者が自由であるのと同様に、読み手の立場も自由で捉え方も自由ですからね。僕も悪くない。
通常ならショーペンハウアーさんが言うところの「読んだらバカになる本」として分類して、読まないんですが、
ただ今回は、「史」と銘打ったもので、ベストセラーになったのはなんでなんだろう?と思って、きちんと読んでみました。
ザッカーバーグさんがシェアしたから、というのは、置いといて、
この本、キャッチーで「〜らしいよ」トークがしやすいんですよね。そして、良くも悪くもわかりやすい問いかけがあるんですよね。これを歴史を使って話すから、歴史という存在が少し魅力的に感じたりもしてしまいます。
ここから本題 笑
こういう社会との接点になる表現を
歴史系の社会科学分野では、ほとんどやっている人がいないんじゃなかろうか。
1970年代ころから、何かストーリー的なことを描くんじゃなくて、説明に重きが置かれ始めて、それは学術としては正しいんだけど、社会(一般的な生活をしたときの視野の範囲内)から学問が遠ざかる過程でもあると思うんですよね。
結果的に使い方のわからない道具が出来上がっていくわけです。
魅力と使い方がわからなければ、当然行き先として選ばれる確率は減っていくわけで。
不景気で余裕のない社会だと実利に目が向くから、歴史系ひいては文系が選ばれなくなるのは仕方ないんだけど、
教養が重要視され、社会のあり方が問われている現代で、歴史というのはもっと力を発揮しないと行けないのではないかと思ったりします。表舞台には登場しないけど、現象解釈のバックボーンとしてね。

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