見出し画像

漫画版 風の谷のナウシカを読んで。


アニオタなのに、いまだにジブリ作品はおろか、押井守作品や、高畑勲作品、果ては手塚治虫の作品までみたことのないので、これまでアニメを語るのがなんとうなく億劫で、アニメがすごく好きだけれども、でもうっすら嫌いという何ともアンビバレントな情緒であった私ですが、とうとう重い腰を上げて、宮崎駿の作品の中でも屈指の名作として挙げられるナウシカを読んで、噛み砕いて、自分なりの言葉にしていきたいと思います。


余談ですが、うっすら好きでうっすら嫌いというのは、昔どこかで読んだもしくはみた何かの作品の中で出てきた言葉で、なにかの本質なような気がして、ついつい使ってしまう僕の大好きな言葉です。(人のセリフをこうも臆さずずけずけと用いてしまう自分には心底嫌気が指すのですが。)
まぁ、そんな話はいいので、本題に入ろうと思います。





読んで感じたこと。

まず最初は、絵の動きに圧倒されると同時に、正直に言ってしまうと、漫画としては読みにくいという印象を受けました。

僕のような素人の青二才が図々しくも、宮崎駿の絵に口を出すのですが、漫画なのにアニメのコマのように、パラパラと動いていくような絵は、宮崎アニメ独特のクセになる動き方を連想させると同時に、一つ一つの戦闘に関する情報量が多すぎて、いまいち展開が掴みづらく、そのせいで物語に入っていけないような気がしました。

また、僕のような、ジャンプコミックスのような小さめの単行本や、スマホの電子書籍を読み慣れた生粋のイマドキオタク(もちろん悪い意味です。)には、やたらとデカく、ずっしりと感じられるサイズの漫画である事も相まって、正直1〜4巻は割と宮崎駿の漫画なんだから、楽しめない自分が悪い!というなんともぎこちない義務感で読んでいて、とても漫画を楽しめているとはいえない状況でした。
恥ずかしながら、土鬼の皇帝とトルメキアの皇帝の区別がついたのも3巻の半ばあたりでしたので、なおのことでした。

しかし、うってかわって、第6巻での、大海嘯がおき、数多の王蟲が死に絶え、ナウシカを包む王蟲の漿がやぶれ、セルムと共に「森」に入る場面。そこで一気に物語に引き込まれました。
あんなに醜く浅ましい土鬼の皇帝が子供のように純粋無垢にはしゃいでしまう場所。草木が生え、鳥が大空を自由に羽ばたき、雲の隙間からさす柔らかな光が辺りを照らす、清らかな浄化された世界。宮崎駿の圧倒的な画力とそれまで腐海の菌類を見ることが多かったのも相まって、思わず見入ってしまいました。

しかし、同時に、自分の中に、ざらっとした不快感が生まれるのを感じました。あまりの景色の綺麗さに人間という存在の醜さを映し取ってしまったのです。

ナウシカが芽吹きかけの花を踏んでしまい、思わず「ごめん」と謝ってしまうシーンが決定的に僕にそう思わせました。作中の彼女は笑っていましたが(悪い意味ではありません)、僕はとても、笑うことはできませんでした。

僕ら生命は歩くたびに、花を散らして、草をぐちゃぐちゃ踏み締めて、土と混ぜる。これは人間だけの話じゃなくて、どの動物だってそうで、言ってしまえば「仕方ない」の一言で片付けられることで、こんなことを気にしている人間は多分世界を探し回ったって、そういないこともわかっていて、だからこそ、この感情を特別に誰かと共有したいとは思いませんでした。

しかし、他者を傷つけずにはいられない僕たちの性を思うと、僕はやはり、そこしれぬ寂寥に包まれるのです。これはナウシカ全体で見ても同じことでした。僕は最初にナウシカの前半にあまり没入できなかった理由としてコマ割りや漫画自体のサイズ感などを挙げていましたが、こうやって自分の心を言葉にしていて、浮かびがってきた心の一つに、「ナウシカに共感できなかった自分。」というのがありました。

ナウシカは元気ハツラツとしていて、生きることに否定的で、内向的な自分とは似ても似つかなくて、優しさと慈愛と、母性に満ち溢れていて、森の虫や、人々の死体を弄る虫使い、醜く争い合う村々の人民、果てはトルメキアの皇帝が見捨てた土鬼の人々までも愛します。

僕みたいなちっぽけな人間は、王蟲とその他の虫たちや見るからに醜い人々を見ると思わず気持ちが悪いと思ってしまって、見るに堪えないというのが本心でした。
醜い人々を、自らの命を投げ打ってまで救おうとするナウシカに心の中で助けなくてええやろ!と思わず何回も怒鳴ってしまったほどです。

自分の大切に思う人々の忠告や心配を聞き、それを無下にしてなお、自分とは関係のない(今はそうは思わないのですが)人々を救おうとするナウシカに一抹の罪悪感を抱きつつも、理解できない存在として遠くにおいてしまいました。

しかし、場面は変わって、巨神兵に嘘をつくシーン。愛していないのに、母親でないのに、道具として利用しているのに、嘘をつくシーン。オーマと名をつけ、母を偽るナウシカの姿。
そのシーンを見た時、あぁ、ナウシカも人間なんだと。他者によって姿を変える僕らと同じ心を持っているのだと。そこで深く、ナウシカを知ることができたような気がしたのです。
彼女は無下にしているわけではなかったのです。たくさんの人々の想いと生き様と死に様を背負って、前に進んでいたのです。

自分の信ずる道をナウシカはひたむきに進んでいたのだと感じた時、思わず、これはすごいぞと。いいしれぬ高揚に包まれました。賛歌、讃美、祝福。これらをテーマにした作品はこの世に五万とありますが、それらの一種の到達点がこの作品なのだと、その時強く理解しました。



宮崎駿の生命という概念について。

宮崎駿のナウシカを通して、ずっと前に語られている生と死。生きること。私たち生命。この物語には色々な人の人生や生き方や価値観が登場しました。
色々語ってきましたが、このナウシカのなかで自分が最も重要だと思う生命という概念について自分なりに語ってひとまずこの文章を締めくくりたいと思います。

生命とはズバリ「清濁を併せ持つ」こと。これに尽きると思います。人を殺してしまう生命。起こる戦争。争いをやめられない僕たち。果ては、神を作り出しその全てを押し付けて楽になろうとするどうしようもない存在。ナウシカでは見ると思わずワッと目を背けたくなるような私たち生命の一面が鮮明に描かれました。私たちが今日までたくさんの血を流してきたのは事実であり、争いが我々の本質であることは確かです。

ですが、生命とは、私たちとはそれだけではないと思うのです。
他者とわかり合って、慈しみあって、喜びを分かち合える。そんな私たちもいるのです。

テストでいい点をとった。かけっこで1番になった。それを親に褒められた。確かに嬉しいんです。生きていると感じられる瞬間なんです。
でも、僕が今まで生きてきて何よりも嬉しくて、心の震えた瞬間は、ふと思い立って家の掃除をしてみて、ありがとう。と一言言われたり、、困っている友達のために頑張ってみて、助かったよって感謝された時なんです。

僕らは争いをやめないし、誰かと競わないと存在価値を示せない部分があるというのは変えられないし、変えてしまうと、それは最後にトルメキアの王が清浄な人類の卵が破壊される時にボソッと言った「そんなものは人間とは言えん....」というセリフが表しているように、僕たちは人間ではない何かになってしまうのです。
ナウシカの言葉を借りると、いのちは闇の中のまたたく光なのです。苦しみがあるから、僕たちは感謝を忘れずにいられるし、人を思いやって、優しさと強さと勇気を持った勇者になれるんです。(この言葉は少し形を変えていますが、僕の大好きな作品から取った言葉です。)だからこそ生きるって素晴らしくて、空気が美味しくて。何にもない今日を愛せるんです。いつかその日々も郷愁になると知りながら。
こんな感じで如何でしょうか。これが僕のナウシカから読み取った生命という概念についてです。



またしても余談ですが、実はこの清濁併せ持つというのは僕の大好きなエヴァンゲリオンでも語られていることで、(厳密には少し違うのですが)エヴァの中では子供は清濁併せ持つことを受け入れられない存在。大人は清濁併せ持つことを受け入れられる存在として描かれています。

人類の補完が起きた後、シンジはミサトと加持が肉欲に溺れるシーン(有り体にいうとセックスしているシーン)を見ます。そこで、シンジはこんな汚いこと...!みたいな(一年前の出来事なのでうろ覚えなのですが)セリフを吐きます。

しかし、かくいうシンジは病室で寝ているアスカの隣で、アスカをオカズにして自慰行為をするというミサトと加持よりもえげつない行為をかましてるんですよね。

案の定、そこをアスカかミサトかどちらかに指摘されて、ウワーッ!といつもの耳と心を塞ぐモードに入るんですが、僕はそのシーンが結構好きで。やはりこの概念というのは人間の本質の一つであるのだな。としみじみしたというどうでもいい話であります。




もう一つ、思いついたので余談を入れます。
いや、入れさせてください。
生命は繋がっている。という話です。
またもや僕の大好きなエヴァンゲリオン風にいうと、ぼくらは相補性の巨大なうねりの中で生きていて、その中から抜け出すことは人(人造人間)ではなく神になることを意味します。
人は皆、1人きりではあまりに弱くて、だから、群れを成して、社会を形成し、敵と戦います。(自然だけでなく、飢餓、戦争、病気、死などとです。)
ですが、僕たちはあまりに違っていて、他者を完全に理解することはできない。でも、僕らは人間である限りうねりの中で生きていかなければならない。
これはエヴァンゲリオンの主題の一つでもあるのですが、同時にサルトルの実存主義哲学の中に含まれる命題でもあります。(解説を見ただけなのに一丁前に語ってしまいすみません。)
実はこの思想に僕は、高校一年生の3月に到達していて(ドヤ顔)、今でも何かを考える時に必ずついてくる自分にとっての大切な考え方でもあります。分かり合えないからこそ、一瞬繋がる時が何よりも心地よく感じる。だからこそ、もう一度君と会いたいと思った。そういう話ですよね。
と、しみじみ。


最後に。

ナウシカについて、正直僕はまだ踏み込めていないと感じています。浅瀬ではないにしろ、僕の今踏み込んだ場所は核心でないことははっきりしています。またいつか時が経って、未来の僕が、そう言えば俺、ナウシカの漫画版家にあったよなとか思って読んでみて、あれ、俺確か激イタポエムみたいなの書かなかったっけ。と思ってここに辿り着いてくれることをささやかに祈っています。3月某所、春の柔らかな日差しのさすベッドの上で寝転がりながら。







この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?