葬儀不要論はどんな人たちが発信するのか

共産主義寄りの人の葬儀不要論

これは左派共産主義が、基本的に反宗教の唯物史観的な立場をとることから葬式なんて意味がないという立場から発信されることです

「魂など存在しないのだから、葬儀をすることなどは欺瞞でありやる必要がない。」というやつです。

マルクスは著作『ヘーゲル法哲学批判』の序章の一部として1843年にこの「宗教は麻薬である」の言葉を書きました。現在では融和的な言葉を語ります。
共産主義は啓蒙的立場を好むので「宗教や風習はは未開なものであり、啓蒙により克服されていくもの」とされています。

中国共産党の葬儀革命・殯葬改革

中国では、旧来の葬儀のやり方を一新して葬儀のやり方を改革しようという運動があります。当然中国の話ですから運動といっても、民衆から起きたものではなくお上の方針という事になります。

その改革の主要な変革は、土葬から火葬への変更、管理 された公共墓地の設置、従来の葬儀から追悼会への変更である。こうした政策は、中国古代の 「入土為安」(「死んで土にもどれば、心は安らぐ」という考え方)、「孝」観念等という考え方とは大 きく異なるものだが、経済発展と高齢化の進展につれて、必要に迫られて行われたものである。
(2019 年度社会学研究科修士論文現代中国における祖先祭祀 ―江西省の事例を中心に― YUAN Liangyu)

宗教や伝統的な文化を排し、宗教色のない追悼会、広く皆が集まる葬儀ではなく家族葬の推奨、一族の墓地ではなく管理された個人もしくは夫婦での墓や納骨堂、土葬から火葬の推奨、埋葬よりも自然葬(海洋散骨)を推奨というように、近年葬儀批判の文脈で言われてきたことが中国の葬儀革命・殯葬儀改革に一致する。

社会がそのように変化しているからではなくて、中国の考え方そのものを流布しているの正体を明かさないままやっていたというのが実際だ。

新宗教・新興宗教側の葬儀無用論

新宗教や新興宗教も葬儀無用論や墓無用論を展開する。これは彼らの立場が家族の墓や一族の墓という従来の緩やかな信仰の形を放棄して、自分たちへの信仰を厚くしてもらわなければいけない立場だからだ。要するにシェアの奪い合い。

30年ぐらい前までは、創価学会さんの正宗さん批判の文脈で聖教新聞に「僧侶の堕落」が、記事だったり投書だったり沢山ありました。いまの学会さんは非常に穏健ですが、過去は問題が出るほど熱心だった時代があり、その時代を体験している人は学会さんの批判を公でいうと怖いという感覚をもっており、「それ学会さんがいってたよね」とか「聖教新聞に書いてあったよね」とかは口に出さないようにしてきた時代がありました。

今はネットで色々な人が書いているので、そう言った批判で怖い目にあうことはない、逆に言えば非常に穏健型に変わったと言えるでしょう。

ほとんどの僧侶批判、堕落している~~系は「それ聖教新聞にかいてありしたよね。」で終わるような話です。実際に堕落しているような僧侶もいますけど、それはその寺院、僧侶個人の問題ですべての僧侶や寺院ではないので、どこの誰ですか?と聞けば済む話です。

マスコミによる、葬儀・墓不要論

上記に、マスコミや創価学会を含む新宗教、新興宗教から葬儀不要論が出たと書きました。さてマスコミはというと「その集合体」というわけです。朝日新聞系による葬儀不要論は「ああ左派で中国ね」という感じですし、NHKも同様の路線です。芸能関係も熱心な学会信者や、上の方にいる学生運動経験者(要するに左派)の人たちがいますから、葬儀不要論にしかならないのです。

上記で「それ聖教新聞にかいてありましたよね?」っていうのがカウンターになりえることを書きましたが

無宗教系の葬儀不要論は「それ朝日系の記事でよく書いてあるやつですよね」も立派なカウンターになります。

金を出したくない派、そして信じちゃう人

最後に紹介する葬儀不要論者は、これが一番多いのかもしれませんが経済的に苦しい人、そして格好つけたい人です。経済的に苦しければ普通に「ウチはお金がないから」と言えばいい所を、「葬儀なんて無駄だやる必要がない」と素直に言えない層というのがいます。

これは上記の左派や新宗教、新興宗教系の理論をつかって「葬儀をしないこと」を理由に話しますので、どちらのロジックも使います。

また左派でも新興宗教、新宗教系でも影響を及ぼすために社会的地位の高いひとに話させます。むしろ、自分たちの都合のいいことを話すために従うものにバーターで社会的地位や要職を与えているケースがありますので、どうしてもハロー効果により信じちゃう人もでてくるんですね。

わりとどちらも確信犯ではないので罪がないとも取れますが、偉い〇〇先生が言っていただから正しいんだという事を主張しますので、これはもうエビデンスで叩くしか方法がありません。葬儀不要論は大体デマのような情報から論理を構成していますので、そこが間違ってることを丁寧にしてきするしかありません。

謝れない、訂正できない人の存在

一度葬儀不要論に傾いてしまうと、そのもとになった話がたとえ間違っていても、謝れないから認めないという行動をとる人がいます。エビデンスをいくら出して話し合っても訂正できない人を老害と呼びます。

老害は、年齢の問題ではなく自論に固執するいこじな性格の事です。なのでどのような年齢でも存在すると思ってください

まとめ

葬儀不要論は、ほとんどのケースで回答が出そろっています。そんなに不要でもないし、各自の状況に合わせてできる限りで出来るだけやればいいということです。長年、積み重なりやってきたことはそんなに無意味とは言えないという事です。

また各自、各自様々な立場から葬儀は不要であるという主張しますが、それはその立場ではそういわざる得ないところがあるということを話してみました。


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