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あれから3年

母が他界して、まもなく3年になる。
「もう、そんなに経つのか」と時間の流れの早さに驚くばかり。

実は今日、母の親友から突然、電話があった。
「そろそろ(母の)命日だと思うけど命日の日にちを教えてほしい」とのこと。
母が小学生の頃からの同級生で亡くなるまで、ずっと仲良しだった方で今年94歳になる。

ちょうど昼休み中だったので、電話でいろいろな話をしながら亡くなった母を思い出し、思わずnoteに書きたくなった。


認知症のはじまり

新潟の実家で一人暮らしだった母。その異変に気づいたのが2016年。物忘れがひどくなってきたことに最初のうちは「高齢だし、仕方ないか」と思う程度だったが、明らかにそれまでの母とは様子が違っており、たまらなく心配になって地元の市役所の福祉課に相談。すると地域包括支援センターを紹介してくれたので、すぐに電話をかけた。

早速、センターの職員の方が母の様子を見に実家に行ってくれて、その日の夕方、電話で母の様子を聞きながら深刻な状況であることを理解。
ここから長期にわたる神奈川~新潟の遠距離介護がはじまった。

遠距離介護の日々

はじめての介護認定は要介護度2だった母。次第に状況も悪化し、介護認定は2から3、さらに3から4へと引き上げられていった。
当初は月に1~2回、自宅のある神奈川から新潟へと通っていたが、その頻度も、どんどん縮まっていった。

その後、入居待ちの介護施設の空きが出るまでの間、特例でショートステイを連日、利用させてもらえることになり、ほっとしたのも束の間、他の利用者もいる都合上、月に2回は母を実家に戻さねばならず、それぞれ48時間ずつ。

なので月に2回、3連休を取得する必要があったが、遠距離介護に理解を示し、最後まで協力してくれた勤務先には今も感謝しかない。

この48時間、実家に母を戻している間は、ほぼ睡眠はとれず、母に付きっきり。
1日の仕事を終えた後、神奈川を出発して深夜の高速を運転して新潟に向かうため、自分の疲労もMAXだったが、そんな中、介護施設に空きができ、ようやく入所できるようになった。

生涯、忘れることのない入所前夜の思い出

この頃には母の認知度もかなり進んでいたが、そんな中でも施設への入所前夜、もう、この家に戻ることはないと感じ取ったのか、母は自分を傍から離そうとしなかった。

冷蔵庫に果物をとりに行く時でさえ、「そんなとこに行かんでもええ!ここにおれ!」と怒鳴る母。傍にいれば大人しいが、トイレに行こうと立ち上がると、たちまち「どこに行くんだ!」と大声を出す。

すると車椅子に座っている母が、次にとった行動が靴下を何度も脱いでは履かせてほしいとせがむこと。
靴下を履かせてあげると5分もしないうちに「靴下が脱げた~」と言う。
これが延々と何時間も続くのである。完全に子供の頃に返っている。

でも、母がこの家で過ごす最後の夜なので、この時間をしっかり心に刻みこんだ。

翌日、母が施設に入所した日の夜、実家に戻った時、もうこの家に母が戻ることがないと思うと涙が溢れてきた。

コロナ禍、そして・・・

予想もしなかったのがコロナ禍。それまでは毎月、施設に面会に出掛けていたが、面会は禁止になり、その後は月に1度だけLINEによるオンライン面会に切り替わった。
最初のうちは画面越しによろこぶ母だったが、認知症がさらに進む中、最後は自分を見ても誰だか分からなくなっていた・・・

あまりにも長すぎた面会禁止の期間。
実は母に直接、会えたのは亡くなる1年前が最後だった。

2021年6月、堪えられない腹痛で、人生はじめての救急搬送された自分。
胆嚢炎で、胆嚢の摘出手術を行い1週間以上、入院した。

この入院中に母が亡くなった。

母の入院先の病院から夜遅く電話があり、知らせを聞いて気が動転するも自分自身、手術後なので身動きがとれるはずもない。
あまりの悔しさに病室のベッドで涙さえ出なかった。

でも、そんなことよりも、一刻も早く葬儀の手配をせねばならず、川崎市内の病院のベッドの上から新潟の親戚に連絡し、同時に葬儀社を調べて葬儀の打ち合わせを行った。

梅雨の蒸し暑い時期なので、早めに火葬をしてもらう手配を済ませ、お骨は菩提寺の住職に相談し、自分が退院して動けるようになるまで、お寺で預かってもらえることになった。

退院して動けるようになった時点で、すぐに新潟に向かった。
すでに母は火葬を終えているので最後まで会えずじまいだったが、葬儀社の方にデジカメで出棺前の写真を撮ってほしいとお願いしておいたので、おかげで写真ながらも棺の中で眠る母の最期の姿を見ることができた。
ただ、この写真は1度見れば十分。2回目は見ることができず、今も見ていない。

親戚の他、生前、母がお世話になった人や友人の方々を分かる範囲で連絡をとり、「骨葬」として母の葬儀を執り行った。

さいごに

冒頭で書いた母の親友の方。
葬儀当日、大きな供花を届けてくれた。
まだ母が認知症を発症する前、自分が帰省すると、その人に会いたいから「車を出して」と頼まれ、よく車で送り届けた思い出がある。
その親友の方も同様に母をかけがえのない存在だと今でも思ってくれていることには感謝しかない。

母も生きていれば94歳。親友の方にはいつまでもお元気で過ごしてほしいと願うばかりだ。

6月29日、母の命日はもうすぐ・・・



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