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僕は自分の人生のハンドルを自分で握りたい

こんばんは。やる気です。
最近、読んだ2つの記事で考えたこと。

そんな日が数日続くうち、息子に本当に嬉しそうに「ママ、お家にいてくれて嬉しい」と言われてしまいました。

少し前だったら、「ああやっぱり私が働いていることで我慢させてるんだ・・・」と落ち込み、悩み、無理に「でもママも働かないといけないからね」とかなんとか反論しようとしたことでしょう。息子に「ママがいい、ママといたい」と愛情表現されるたびにグサグサと刺されているような感覚・・

大学進学と同時に福岡から上京してきた僕は、10年近く一人暮らし。
独身だし、同棲やシェアハウスの経験もない。ペットを飼ったこともない。
今は彼女もいないので、完全無欠の27歳独身男性。

だからこそ「将来、こういうことを言われたら悲しいんだろうなぁ、、」ぐらいの感情しか湧かなかったけど、次の文章でハッとした。

今になってやっと、「私は私、息子は息子。私だって自分の人生があるし、息子には息子の人生がある。別個の人間としてお互い刺激を受けながら一緒に楽しくやっていこうぜ」と虚勢を張ることなく思える。だからくっつているときはくっついているし、離れるときは元気に離れられる。前は少し無理をしてそう納得しようとしていたけれど。

仮に、「息子」を「上司」「同僚」「パートナー」「友人」「家族」と置き換えたときに、彼女と同じように、自分は虚勢を張らずにいられるのだろうか?と思ってしまった。
一方で、自分が彼女の「息子」のように、誰かに依存しているんじゃなかろうかとも。

このレースは辛い。男性に限らず、このレースに参加させられている人は多いはず。

そんな中で「ありのままでいい」と優しい言葉をかけてくる人に、ついつい依存しそうになるのだ。
(具体例は挙げないけど、この構造を悪用する人間は多い。そういう人間が本当に嫌いだ)

そして、他人に肯定の言葉をかける。一度ではなく、二度も、三度も。求められたら無条件に何度でも。そうしてしまいがちな癖が僕にはある。

だからこそ、ハッとしてしまった。

・・・


去年、ある出来事があって、「自分の人生のハンドルを自分で握る」を心がけるようになった。(その出来事の克服が今年のテーマでもあって心がけるようになっている。)

その観点で二つの記事をもう一度読み直す。

自分の価値を認めてくれる人のもとで、働くことや時間を過ごすことは幸せである。一方、それは自分の人生を生きているのかと。自分の人生のハンドルを自分で握っているのかと問い直す。

また、他人を肯定することは大事だが、それを求められた時に、毎度毎度ずっと無条件に肯定し続けるのか。それは他人の人生のハンドルを握ってしまっているんじゃないかと。(これは無条件に肯定し続けることの是非についてであって、肯定を悪とはしていません。もしかしたら無条件に肯定ではなく、否定でなくとも提案などが必要かもしれない。)

パートナーや家族であるなら少しは理解できる。が、そうじゃない人間関係において、人生のハンドルから手を離して他人に委ねたり、もしくは他人のハンドルを握ってしまったりすることは避けるようにしたいと改めて思った。
それが、虚勢を張らずに自分の人生を生きることだし、他人が他人の人生を自分で歩むことだから。(と現時点では考えている。変わるかもしれない。)

In this life time, you don’t have to prove nothing to nobody, except yourself. And after what you’ve gone through, if you haven’t done that by now, it ain’t gonna never happen.
他人に何かを証明する必要なんてないんだ。証明するなら自分自身にしろ。今までやってきたなかで、まだ成し遂げてなかったら、それは一生起こらない。(ルディ/涙のウイニング・ラン/1993)

やる気

本やマンガ、他クリエイターのサポートなどコンテンツ費用に当てるつもりです。感想はnoteに上げていきたいな。