出身地
学校でもバイトでも、大概知り合ってすぐに歳を聞いたり、出身地を聞いたりする。出身地ってややこしい。特に家族の海外赴任中に国外で生まれたり、母親が実家に帰って生まれたようなときは、ほんとうに生まれただけの場合も多い。「テレラン生まれだよ、本当に生まれただけだけど」という友人が高校時代にいたが、言葉ができるわけでもなければ記憶もない。あとは転勤族の子どもたちもメインで育った場所がなさすぎて成人式に行かないことも多いと聞いた。私は義務教育(小学校1年生から中学校3年生)までの間で一番長くいた街を自分の出身地にすることにしている。それが一番しっくりくる。生まれ育った環境は、多くの場合自分でコントロールできる場合が少ないので、自分で稼ぎ始めたり、「やりたい学問がある」とか、「〇〇先生のところで勉強したい」というポジティブなメッセージを説得材料として、自分のスポンサー(大抵の場合は保護者)を口説き、あこがれの場所に住む夢を叶える友人もいた。その目的地が関西だったり、首都圏だったりすると、スポンサーは心配するが、子供の方は一度オッケーをもらえば、してやったり。ここからが私の疑問。そういったものをくぐり抜けて大きな街にやってきた人の中に、最近良く見かけるのは、「あたかも大きな街にやってくる前の自分の歴史を消し去ろうとしたり、今住んでいる場所を猛烈にアピールする」人たちだ。その人達それぞれには様々な思いや事情があるとは思うのだけれど、よく聞いてみるとどうも以下のことに集約できるような気がする。「どんなところなの?」ときいてみると、「古い」、「プライバシーがない」、「無神経」、「田舎」、「〇〇がない」、「男尊女卑」、「変わらない」、「知られていない」、「有名人がいない」などなど。すべて人に関することが中心で話題が展開される。「空気がおいしい」、「〇〇がおいしい」、「星が綺麗」、などの自然に関することはそのようなひとの口からはなかなか出てこない。災害などで、大変な思いをしてきたひとたちは別だと思うけれど、出身地を去って振り返らないひとは、そこに長年何世代にも渡って住み続けている人たちの画一的な分類の仕方が原因で人間関係をうまく構築できなくなることが多いようだ。労働人口が減少し、外国人労働者にも依存が始まる地域も増える中で、一番変わらなければならないのは、今まで一番変わらなかったひとたちであるような気がする。出身地を聞かれたその街出身の若者が、その土地の名前を胸を張って言えないような街がそのままでいいとはどうしても思えない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?