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同情するなら

『Q. なぜあなたはそれをするのか?』

さまざまな場面において、自分の行動指針についてこうした質問を投げかけられた時、「人の役に立ちたい」だとか、「人を笑顔にしたい」といったことを口にすると、大概胡散臭い綺麗事として一蹴されてしまいがちだが、私は直感的にこの回答を用いてしまう。
過度に難しいことを考えられず、そして仮に言語化できたとて上手く発語するだけの瞬発力を持ちあわせていないし、こまごまと語るほど優れた経緯もないので、ただただ、「自分はそれが好きで、それによって誰かが少しだけ豊かになるなら、それで良い」と、ごくシンプルな感情で動いてきた。
仕事においても、個人活動においても、何においても。




先日、勤めていた会社が倒産した。
厳密に言えば、ある日突然、代表の一存で倒産することが決まり、職を失った。
発足してわずか半年間、まだまだ成長過程にあったにもかかわらず、なんとなく思い通りにいかなかったからという理由で、事業を畳むことになったらしい。
この話を受けてすぐに悩む隙もなくバイトを探せたので無職ではないが、晴れて私はフリーターになった。

実を言うと、私が収入源を失う(ほぼ無職の状態になる)のは、これで3回目である。それもこの2年間のうちにすべて起こっている。そしていずれも自分の意思で退職したものではなく、会社都合で余儀なくされたことだ。


これまでに幾度となく自分の存在意義を問い、過去に想いを馳せ、未来について憂いたが、今回の失職を受け、「こんなに狂った人生を送っている人間が他に何人いるだろう?」と、開き直ることに成功した。
社会的ヒエラルキーの最底辺で生活面と経済面の安定が一切担保されない暮らしを続けていたために、多少なり図太い意識が生まれたのか、もうこうなったらその潮流に乗っかって面白くサバイバルするしかないと思うようになった。
不思議と、生きることを諦めるとか辞めるとかいった選択肢はない。その代わり、特段、希望みたいなものもない。

悩んだところでお金は生まれず、泣いたところで職には就けない。ならば私が真っ先にすべきことは何か?

しばらく連絡を取っていなかった友人と予定ができたとか、出先で良い音楽を聴けたとか、今日は洗濯物がよく乾いたとか、とてつもなくどうでも良いことにすら感動してやれよと。

10年後、5年後、1年後、24時間後の心配よりも、いま、今、この瞬間を悔いなく生きる方が大事だと、人権以外の全てを失くしてみてこの真理に気が付いたわけだ。今の私なら仏にもなれる。


しかし、日頃から「一般的」な「当たり前」を「普通」に生きている人からすると、私の考え方や生き方は忌避に値するものだと思う。
現に、転職活動中の各社で面接官から現状について問われた際、先述のように回答すると、しばらく絶句されたのち、「人柄は良いのに具体性が感じられなくて怖い」という理由で落とされた。

逆に考えてみてほしい。ほぼ何もない状態から、実態のないもの(未来)に対して具象を生み出すことができるはずないのだ。


今こそ開き直ってはいるものの、自分の人生は自分のものだけではないため、当然一抹の不安は感じている。この1ヶ月の間に脱毛症が急激に悪化してハゲたり、思うように眠ることができなかったり、残高がずっと¥6,754のまま止まっていたり。
目に見えて何らかの犠牲が伴っているし、そこそこ疲弊はしている。

でもそんなことを誰かに訴えかけたところで、きっと相手は面白くないし、何より私が救われることなどはないので、考えない。
考えなくて済むくらい、忘れてしまうくらい没頭できる「好き」と「可能性」を見つけて、なるべく笑える「選択肢」に替えていくしかないんじゃないかな。私の心根に在る私がそう言っているので信じたい。


実際に窮地に陥った人間が求めるのは同情や見せかけの言葉などではない。

たとえば、あなたが友達と歩いていて、あなただけが突然車に撥ねられたとする。自分自身も何が起こったか分からない状態だったら。
友達はあなたに対して「可哀想に…」と涙したり、「なんてことするんですか!」と撥ねた運転手に激怒したり。あなたはそんなことを必要とするだろうか?
きっと救急車を呼んでもらうか、咄嗟に応急処置をしてもらうか、或いは、「えっ!?w 急にww 車がwww」と驚きのあまり爆笑してもらっていた方が、きっとその後回復したとしても死んだとしても救われるんじゃないかな、というのが私の私見である。

私の場合、今本当に私が求める必要なことは、間違いなくお金と仕事だが、身の回りの知人たちにそんなバカな要求をできるわけがないので、せめて、「ヤバすぎww お前面白いね」と笑っていてほしいのだ。


みんなにはみんなのしんどさがあると思うけど、自分よりも圧倒的に詰んでいる人間が、淡々と嘘のような身の上話を繰り広げ、のうのうと絵を描き、つらつらと文章を書いていることを、あなたは疎んでも良いし、嗤っても良い。

こいつに比べたらまだマシだとか、こいつレベルでも何故か生きているなら大丈夫、と勇気の糧にしてもらえたら良いなと思っている。
別にこれを自己犠牲とは捉えていない。ただ、その方が楽だというだけである。




何も合理的な生活を送れていない自分にとって、誰かの役に立つような行動を起こすのは壁が高く、そのような思考も大変おこがましいことだとは重々承知の上で、今の私自身が何を以て救われているかを反芻した際に、必ず誰かの生み出した産物があることを痛感している。
それは、映画でも、音楽でも、漫画のようなクリエイティブでも、はたまた一個人のSNSでのつぶやきでも、対話において生まれた言葉でも、誰かが発現させた事象によって、私は笑顔になったり、安心したりして、心を豊かにしているのだ。

だから私もそうありたいと願っている。

私の絵が、文章が、声が、どこかの誰かにとって、ちょっとした面白みになったらそれで十分で、その分私も描くことをやめないし、書くことを諦めない。

すごく、すごく、遠回りをしているけど、今の「生」に悔いはないから、私の純粋な気持ちに間違いはないんだろうなと思いたい。

だからね、同情するなら笑顔をおくれよ。

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