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料理と私

先日、スープ作家有賀さんのnote「料理と自尊心」で書かれていた言葉をみたときに、まさに私かもと思った。

料理というのは、自己肯定感を得やすい作業だ。ごく簡単な料理なら、目玉焼きでもスープでも、短時間でできあがり「やった、作れた!」という素直な嬉しさがある。だから料理をすると、つい「作った自分」のほうに目が行ってしまう。料理がうまくなれば自分の価値はもっと上がり、自尊心につながると人は思いがちだ。(それはある意味間違っているのだけれど、ここでは置いておく)
料理と自尊心について|有賀 薫|note

「食べること」よりも、料理をちゃんとし続けたことや、好きな道具を使うとか、あれこれ初めて作るものを見つけて作れた満足感を得ることのほうが多かったように思う。

でも、初めて料理をしようと思ったのはそういうことじゃなかった。

19歳のときに一人暮らしを始め、それから5,6年間の食事はもっぱらコンビニかスーパーで買ってきたものでたまに自炊するような生活だった。でもあるときテレビか本で「人は食べたものでできている」的なニュアンスのことを聞いたときに、当たり前のことなのに目から鱗でその時の私は「コンビニでできている身体」だった。

それじゃ絶対にいけないと思って自炊を始めたものの、キッチンがめっちゃくちゃ小さくて、そもそもあまり料理をしたことないからどうやってやれば手際よくできるのか全くわからず、具材を買ってきても1,2回しか調理しないから結局捨てることになるのを何度やったんだろう。

でも、10年ぐらい前にキッチンの広い部屋に引越したときに料理が楽しくなった。あのとき作ったジャーマンポテトがほんとに美味しくて今でも味を覚えている。

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家で育てていたローズマリーを加えて、油多めのフライパンでじゃがいもを炒めて塩コショウで味付け。初めて料理にハーブを使って(「西の魔女が死んだ」に影響されてハーブを育て始めた)、お店のような美味しい味が家で簡単にできるのか?!と衝撃だった。食べた瞬間に笑いがこみ上げてきて、今思うとこれこそ「幸せ」というものだったのに、それに気づいたのはこうしてnoteに書いている今。美味しいもの食べるのは幸せなこと。

食の本能を満たされることは生き物にとって最大の自己肯定だからだ。基本的な衣食住が整うと人はそれだけで自分を大事に感じられるし、生きていていいのだという自信につながる。
料理と自尊心について|有賀 薫|note

今ならこの言葉が分かる気がする。この間有賀さんがこんなことを言ってくれた。

薄々気づいていたけれど、私は「できる」という実感がないと自分を認めることができなくて、それが自己肯定感が低い理由だったのかもしれない。

それに、振り返ってみると私にとって食べることはどちらかというと「空腹を満たす」行為に近かったようにも思う。友だちとご飯食べに行く以外は。

でも今は違う。なんでも美味しく食べたい。食べて幸せだ〜と感じたい。失敗しても次はもっとうまく作ろうと思えるし、それに今は作ったら食べるのを楽しみにしてくれる母がいる。一緒に暮らしはじめた当初は母がなんでもやってくれるから何もしなかったけれど、私もまた料理をするようになったらコミュニケーションが多くなった。分からないと教えてもらうこともできる。

子供の頃、自営業だった父も母も忙しくて料理を教えてもらった記憶が全くなったけれど、いまこうして一緒にキッチンに立って教えてもらえるのが楽しい。と言いながら最近母の怪我もだいぶ良くなってきたから私はサボりがち。最近の私はどんなものでできているだろうかと考えたら「ポテチの身体」かも・・・。ヤバい。

最後まで読んでいただきありがとうございます。頂いたサポートをどのように活用できるかまだわからないです・・・。決まるまで置いておこうと思います。