喩えるならば、ダイビング。

以前、僕は「対話」ということばを「本質さがし」と表してみた。いつかのこのnoteにも、そう書いた記憶がある。ふだん何気なく暮らしているだけでは顕在化していないような、ヒトやモノ、コトの内側に、ひいては本質に迫ること。極めて個人的な感覚であるが、対話にはそんなイメージを抱いていたわけである。

しかし、今はまたちがった考えが僕の中にある。すなわち、何かの潜在的な部分に迫ることをベースとしながらも、必ずしも本質に迫ることだけが対話ではない気がしているのだ。たとえばヒトの気持ちならば、べつにその人にとっての本質にそぐわない部分と向き合っても、それは対話となるだろう。その日その時その場所で、感じたこと考えたこと。自分であろうと他人であろうと、そんな潜在的な部分に近づければ、あるいは近づこうとすれば、それだけで対話と呼んでいいのではないかと思っている。

それこそ、今の僕の本質を貫けるようなことばは見つかっていないのだが、喩えるならばダイビング、だろうか。いわゆる内面や構造などという内側を目がけて、どぼんと“潜る”イメージ。静かで暗くて、さまざまな要素が入り組んでいるのかもしれない。ただ、きっとそこでしか見られない景色、感じられない心情、考えられないことがあるだろう。たとえばウェットスーツを着て酸素ボンベを背負って、対話はそれほど意気込む必要もないのかもしれないが、僕にとってはダイブする画がイメージに近い。

「本質さがし」でないとしたら、どんなことばがふさわしいだろうか。いったい僕にとって、対話が持つニュアンスは。あくまでダイビングは、イメージを描写したことばである。まさに自分の内側に潜りながら、じっくり見つけていきたいと思っている。

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