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どうせ、僕。

自分のこと、すきですか。

今の僕に問えば「どちらでもない」という答えが出た。ばっちり正面から受け入れられるほど好きではなく、さっぱり見切りをつけてあきらめられるほど嫌いでもない。いや厳密には、いちいちそんなことを考えないほど、当たり前の存在になっている。好きだとか嫌いだとか、結局それ以前に気づけば僕は、僕だった。

いわゆる何者かになれるのかもしれないと、ひょっとしたらあこがれの“あの人”のようになれるのかもしれないと、息巻いた時期もあった。なんでもない営業職がコピーライターになるという夢を追いかけて退職・上京した20代前半あたりが、そのピークだろうか。あの頃はそうだなあ、1K5.5畳ユニットバスの一室だけで十分だった。家賃4万5千円。東京メトロの最寄駅には、歩いて10分ほどの場所に位置していた割に格安で、我ながら良い物件を選べたと思う。

しかしながら結果として、ほかの何者かにはなれなかった。何者かになろうとすればするほど、自分が自分と離れていくような感覚で、その狭間で生きる技術もない。社会には近づくのかもしれないけれども、それはいわば社交性と呼ばれるものかもしれないけれども、もはや僕でもないことが耐えられなかった。いったい何だったのだろう、あの頃の自分は。

そうだ。どうせ僕は、僕でしかない。日本の首都へ移り住んでも、一心不乱に夢を追いかけていても、どう足掻こうが僕は僕だった。ただ、誤解なきよう記しておきたい、今となっては良い意味もはらんでいる。ただただこの道を進めばいいのかと、とてもクリアな感覚だ。ふっと後ろを見れば僕の足跡しかなく、すっと前を見れば誰の足跡もない。ちょっとだけ寂しがるふりをして、ほんとうはなんだか誇らしい。おれにしか通れない道なのだと。

自己肯定感という言葉が市民権を得て久しいけれども、“肯定”するほど華麗でなくてもいい。すべてを理解して、受け入れられるほどの度量はない。それでも僕は、自分自身をあきらめて許容して、ただそっと、自分と寄り添っていたい。死ぬまで共にあるであろうこのいのちを、いつまでも可愛がっていたいと思うのだ。

いつもいつもありがとうございます〜。