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「体育会系」が評価される理由。

僕が就職活動に取り組んでいた大学時代、体育会系と評される人の存在が際立っていたように思う。決して性別は問わず、運動部に所属していた経験を持つ人が、比較的多く内定を手にしていた印象である。

当時から今まで、きっとスポーツで培った「体力」や「元気」が、なんとなくその理由である気がしていた。朝から晩まで走り回り、それでも「センパイ!お疲れ様です!」「きょうもありがとうございました!」と職場に活気をもたらす。またそれを支え、これまたスポーツで養われるであろう「献身性」も会社への忠誠心に、すなわち就活での好印象につながるのではないかと思っていた。

しかしながら、おそらくそれらもなくはないのだろうけれども、ここにきて本質は違う気がしている。ひとつの世界で生きられること、ではないだろうか。たとえばAという仕事を与えられたら、彼らはそれに向かって突き進む。かつて監督やコーチ、センパイに促されたら絶対という、そんな世界にいたのだ。Aに疑問を抱いたり、ひとりでBやCなどという他の選択肢を考えることは比較的少ないものとして、“言われるがまま”に仕事に取り組めることが評価につながるのではないだろうか。

ところどころ部活動への参加が強制ではなくなっている今、学校での実態がどうなっているのかは定かではない。日常の中で自ら問いを立てて解決する探究学習、あるいは社会全体に広まった多様性など、さまざまな言葉と共に時代は変容しているだろう。それでも、今の社会には“あの頃”の体育会系を信じる大人がいて、つまりそれが評価される世界があるわけだ。幸か不幸か、僕は疑問や問いを抱く人間だった。いわゆる体育会系ではなかった。その宿命として、今の世界をこうして自分なりに、粛々と、観察していたいと思う。

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