見出し画像

「嫌い」がすき。

この僕にとっての「スパイシー」が、いわゆる「人間味」と呼ばれるものなのかもしれない。

誰にだって得意なものや好きなものがあるように、どうしても苦手なものや嫌いなものもあるだろう。たとえばモノでもコトでも、ヒトのちょっとした仕草でも、上手に受け入れられない「嫌い」があるはずだ。

そこには、これまでの経験やそれによって形成された価値観、つまり独自の理論がぎゅっと詰まっている。もちろん「好き」にも必要とされる要素だとも思うが、「嫌い」の場合は何というか、その人間性の部分がより濃厚な気がするのだ。もっとドロっとしていて、なんだか黒ずんでいて、そう簡単に見られないようなものである気がする。

だから、問題はそうなのだ。なかなか見られないのだ、その人の「嫌い」の部分は。大人特有の浅い関係性では無難な顔しか見せあわないし、いざ話したとてちょっと愚痴っぽくなって、その場の雰囲気がわるくなりかねない。だからこそ僕は、それを言いあえる、あるいは許しあえる関係性も含めて「嫌い」がすきなのかもしれない。垣間見える信頼も含めたアウトプットこそが、「嫌い」なのかもしれない。

ということを、毎週チェックしている『オードリーのオールナイトニッポン』を聴いて考えたのだった。若林さんの「嫌い」を話す熱量、そしてそのある意味で偏った理論、めちゃくちゃすきなんだよなあ。

いつもいつもありがとうございます〜。