審美眼とは
高校野球の季節である。筆者は球技の類に苦手意識はなく、取り立てて野球は素人の中では勘どころがいい方であると自認している。
授業で扱った時は4番を背負っていた。
スイッチヒッターだったし、なんか適当に球の勢いを殺してバントだかスクイズだかも感覚でできていたし、振れば当たるし。
筆者の文章を読まれている方はご存知のことだと思うが、筆者は振り切った感覚派なので、三振や見逃す人間を見て、「芯で捉えて振るだけなのに何がそんなに難しいんだ?」と思っていた。
苦手な方には大変申し訳ないのだが、他の球技と違って足を動かすことも戦況を見ることもしなくていい。考えることが圧倒的に少ない。
素人は変化球も投げれないので、何も考えずただボールを見て振れば飛ぶようにできていると思うのだが。
あと、野球が好きなのはチームプレイだからなのもある。他のスポーツはやりながら周りに声かけるなんて余裕は到底ないし。
話は戻るが、筆者はダイナミック感覚派である。なぜ出来ないのかわからない、なぜ気づかないのかわからない。
自分がわからないときは、割とあれこれ試したり確認したり、ほったらかして時間を置いてみて解決を試みる。
やってみたらできる。でも、その裏には多種多様な工夫やら苦悩やら何やらが渦巻いていて、自分はその中で正しく足を進めることができるけど、多くの人は間違っていく。
でも、一体何が正しくて何が間違っているかなんて、他人に判断が可能なのだろうか?
それが審美眼であると思っている。知識や経験を無意識に落とし込んで感覚的に使える能力は、恐らく誰しもが持っているのに往々にしてうまく発揮されていない。
本当に正しいことは美しい。野球のバットにボールを当てて飛ばすこと一つとっても、筋肉の力が綺麗に伝わったら打球は伸びるが、無理やり当てただけだとフォームが美しくないし、飛距離が伸びない。
美しくない。故に、間違っている。
シンプルな図式である。生き様においても同様に、個々人で最適解があると断言したい。
私には生まれつき眼が見えている。心眼、と称してくれた人もいるし、覚者の類だと言われたこともある。私に対峙した勘どころがいい人間は、目が合っていないのに見られている感覚がする、とも言っていた。
だから残念ながら審美眼の研ぎ方は何もわからない。見えない人の景色はわからない。
見えているものを見えている通り判断して、それを他人と擦り合わせて解像度を上げている。
人の生き方が千差万別であるということと、目の前の人間がその人自身にとって綺麗に、美しく生きれているかどうかは全く異なる。
表面上の悩みではなく、最も根幹の、人としての在り方がブレていると、顕在化してくる悩みも全て本質からズレてくる。それを指して愚かだ、美しくない、と言っている。
自分に嘘をつかない事。自分から逃げないこと。的外れな問題に終始しないこと。
貴方の本当にやりたいことは何?
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?