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過去に置き去りにされたもの


大人になるって

幼い頃憧れていた大人という世界。
好きなようにお金を使えて
仕事してお金も稼げて
しかも勉強しなくていい!
学校行かなくてもいい!

そんな風に思っていた気がする。

とはいえ
実際はどうだろう。
あんなにも憧れていた「大人」という自分は
憧れていたものに
どれだけ近づけたんだろう。

でも
明らかに今思うのは
ずっと「子供」の方がいい(笑)
あの幼い頃の無邪気な感情は
もうどこかへ行ってしまったのだろうか。

過去の出来事

ここまで人生を味わってしまうと
それなりにいろんな場面に出くわし
その度にいろんな思いをして
時を刻んできた。

それなりの出来事は
記憶として断片的に覚えているものとして
カテゴリに分ければ

  • 楽しかったこと

  • 嬉しかったこと

  • 辛かったこと

  • 悲しかったこと

  • 悔しかったこと

そんな感じ?

でもどうしてか
辛かったことや悲しかったこと
悔しかったことなどのマイナスな出来事は
後悔だとか憎しみだとか
そういう更にマイナスなサブタイトルまでつけて
保存してしまってる。

でもそこに大きな落とし穴があったことに
今更気づく自分。

何故、ご丁寧にサブタイトルの感情までつけて
保存してしまってるのか。

置き去りにしているのは

自分探しとタイトルつけて
今、様々な視点から自分について見つめ直してる。

いろんな講義も受けながら
これからの時間を有意義にしたいがためだけに。

それぞれの気づきで突然何かが舞い降りてくる。
感情というカタチで。

その中でインナーチャイルドも見つめた経緯で
マイナスな出来事は自分の中の映画館に上映されても
そこに映るのは
幼い自分とその出来事
そしてそこで発せられたであろう言葉が
字幕で映るのみの音のない世界。

そして見ている今の自分は
「あ、あの時辛かったなぁ」
と感じるのみ。

そこに置き去りにされたものにも気づかず。

そう。
置き去りにしていたのは
その時の自分の気持ち。感情というもの。

あの時どういう思いだったか。
どう感じてたか。
そこに着目していなかったことに気づく。

だからいつまでも保存してしまってることにも。

あの時どう感じ、思ったの?

思い出を振り返るのに
「あの時、どう感じた?どう思った?」
そんな風に振り返ることはない。
ただ、オモロかったねぇ~。
辛かったねぇ~。
悲しかったねぇ~。
の単語のみ。

そうじゃない。
もっと奥の思いは絶対ある。
その感情を見ない限り
きっと辛い過去たち、悲しい過去たちは
置き去りにされたままの負の宝庫になってしまう。

だからきっと
その置き去りにされた出来事の過去とセットで
いつまでも保存してあるからこそ
それを思い出させる新しい似たような何かが
舞い込んでくるような気がする。

あの時、どう思い、どう感じた?のか
それは自分を見つめるに
とっても大切な行為なんだと
最近感じてる。

あんなに憧れていた大人になると
過ぎた時間の分だけ出来事も積み重ねて
容易に過去を振り返れない。
あんなこともこんなこともありすぎて(笑)
ただ
一日平穏無事で過ごせることや
無事に仕事が終わることや
目の前のことにしがみつくしかない毎日。

だけど
置き去りにされた感情の放置は
現実にも容易に影響することを
あまりにも知らなかった自分を最近感じてる。

大人として生きるのが
子供の頃に思っていたのと違い過ぎるギャップを感じてる。
それは
沢山の置き去りにされた自分が存在しているから
前に進めていないだけのこと。

子供のように
無邪気さを本当はどんな年代になっても
感じていいはずなのに
それを出来ないものとしているのは
それなりの理由があることを
今、ワタシは追及している。

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