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月と地球の距離の〈厳密性〉について

我々は、事物より度量衡の法則概念を定立しつつ、それにより事物を測定する。例えば、月と地球の距離を測定する場合、その距離は「約38万km」であるだろう。しかし、その距離は、端数が省かれているため厳密には正確ではない、と言うことができる。

しかし、我々は、常に、無限に厳密に事物を測定するのではなく、欲動に於いて事物を測っている。つまり、欲動がその必要性を満たすまでは、対象は不正確な対象であり、その必要性を満たすなら、対象は正確な対象になるのである。そして、コミュニケーションであるなら、その欲動は承認欲求である。つまり、正確な対象の形成は、承認欲求に規定される。故に、無限に厳密に正確な対象を形成することはなく、その形成はその欲求の満ちるまでである。そして、欲求の満ちる際には、自由が形成されている。例えば、日常会話で月と地球の距離を語る際に、互いが「約38万km」という言い方を認めれば、その言葉を今後も使い得るし、互いにその言葉が自身をより自由にするため、それは「正確な対象」としてあるだろう。この正確な対象、すなわち「自由」の形成を以て欲動は満ち、欲動のそれ以上の厳密性の追求は止む。

一方で、端数を含めたより厳密な言い方を追求・要求するのであれば、欲動はコミュニケーションの場から独立する。この独立する欲動は、ただ単に無限に厳密に正確な対象を追求しようとする。故に、月と地球の間の距離に「約」と付する曖昧な言い方を、正確な言い方だと認めない。

また、独立的な理念的欲動は、対象の真を解き明かそうとするが、有限か無限かは不明だが、事物を測定する限りで、端数の結末を確かめることは出来ない。それは、対象に新たな極小の場面を測定するたびに、知性は、新たな法則概念(単位系)を定立しうるからだ。ただ、端数が有限でも無限でも、いずれも証明は成立する。それはカントの分割に関する二律背反の議論の示すとおりであるだろう。ただ、どちらの証明を好むかは、結局その意識の欲動次第である。そして、その欲動を共同性に向けない限りでは、正確な対象の意義(自由)を知ることは無いだろう。

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