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ヘーゲル「精神現象学」 A.意識章から見る弁証法的運動

100分de名著「精神現象学」への疑念

ヘーゲルの「精神現象学」は極めて難解な文章が並ぶ。解説本を頼りに読み進めるも中々手強い相手だ。ヘーゲルの精神現象学の意識章の感覚的確信〜悟性の話も極めて理解しがたい。

しかし、序論・諸論と、ここに弁証法のエッセンスが詰まっていると言ってもいい。だが、NHKの「100分de名著」という番組で、精神現象学が紹介されたとき、その意識章がNHK出版のテキスト(番組では放送と同時にテキストも販売する)から丸ごと切り捨てられていた。雑な扱いをされていると感じた。なので、意識章がどのようなものであったか論じてみたい。

【感覚的確信】:対象と概念について

意識章の感覚的確信の場面では「このもの」としての対象がまず登場する。ヘーゲルは目前の個別具体的な対象から哲学を始めるのである。そしてヘーゲルは「このもの」を「いま・ここにあるもの」として分析する。つまり「このもの」の中に「いま=時間」と「ここ=空間」の概念があることを示す。

互いに他方を支える概念(=知)と対象(=真)

対象と概念は、すでに固く結合している。時空間の概念がなければ対象を把捉することは出来ないし、対象がなければ時空間の概念を形成することは出来ない、という具合にである。

さて感覚的確信の場面では、ヘーゲルは、どんな具体的な対象も概念を通して間接的に把握していることを示す。対象は概念を通して対象自身を産出するのである。すなわち、我々が見て・聞いて・触っているものは、直接的なナマの対象ではなく、概念を媒介した対象であるということだ。

ヘーゲルはここで一つの立場を打ち出している。つまり、カントに反して、対象と概念が結びついているという点である。カントは感性的対象と悟性的概念を完全に区別したが、ヘーゲルの場合は、区別はするが、完全に区別するのではなく、一応繋がっているところもあるということを示す。例えば、言葉だけみても「対象」と「概念」は違う言葉が使われている。だが、それらは深いところに不可分な絆があるという感じである。そのようにヘーゲルは考えた。

【知覚】:比較可能性について

我々が見ているのはナマの対象ではない。概念を通して仮構した対象である、ということが分かった。そして、知覚の場合でヘーゲルは、仮構された対象を「物」と呼ぶ。そして「物」には唯一性と諸性質の束のいずれかが備わるものとして考えた。
唯一性とは、その物の替えの効かないオンリーワン・ユニークな在り方のことである。対して、諸性質の束とは、リンゴなら「赤い」「甘い」や「丸い」などの諸性質のことである。言い換えれば、前者は他と比較不可能なものであり、後者は比較可能なものである。つまり、対象は、唯一性と諸性質の束という相反する矛盾を含むと言えるだろう。

故に、ヘーゲルは、唯一性と性質の束のいずれかが物の側に、そしていずれかが意識(概念)の側に備わるはずだ、と議論を進める。論理学でいうところの排中律である。

ただ、こうした排中律に陥るのは、相反すると思われていた唯一性と諸性質の束が、完全に区別可能であるという前提に立つからである。

その前提でよいのか。改めて検証すると、唯一性と諸性質の束は互いを通して自らを産出する、という方が適切である(そうでなければ唯一無二性も諸性質も自らの同一性を維持することができないから)。つまり、それらの間には繋がりがあり、「物」は唯一性と諸性質の束の二重性・相互性を備えた在り方をしていることが分かる。(ただし、意識の中に物の諸性質を生起するものが物の唯一性なのか、物の諸性質を生起するものが意識の中の物の唯一性なのかは不明瞭。意識の側にも物の側にも唯一性と諸性質の二重性があると考える方がいいのかもしれない)

【悟性】:純粋法則概念について

仮構された対象「物」が導いたのは「物の唯一無二性と諸性質の束は相互的である」という純粋な法則概念であった。すなわち、感覚的確信の場面と同じように、我々は、法則の概念を通してものごとの相互性を見ているということである。この純粋な法則概念は「無制約な絶対的普遍性」としてある。

対象の相互性を支持する法則概念(=知)

これは他にも「法則と諸現象は相互的である」という風に言い換えられて応用がきく。法則が諸現象を説明し、諸現象から法則が作られる、という風にである。
また「法則と諸現象は相互的である」という純粋な法則概念は、合理的な相互性の世界を形成する。原因−結果、内なる力−その発現、法則−現象、静的な世界−動的な世界のように、それら相反する世界を、純粋な法則概念は、相互的・合理的に仕立て直すのである。
また悟性の場面に於いて、「純粋な法則概念」と「法則−現象の世界」も相互的なものとしてあるから、悟性は更に純粋な法則概念(および現象)を無限に同語反復的に定立するのである。

三位一体の構造

そして、ヘーゲルは、そもそもこのような概念(知)と対象(真)の二元的な運動を「自己意識」に於いて為していたとする。これまで知と真の運動を見てきたが、その運動は無造作な運動なのではなく、純粋概念形成・合理的対象形成の指針を自己意識(欲望)が与えていたのである。対象意識から自己意識の目覚めである。二元的運動は一元的意識を明らかにし、一元的意識は二元的運動を形成する。こうして、ヘーゲルの弁証法は以下の構造としてある。

ヘーゲル的三位一体構造


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