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「論理」は言葉と言葉の隙間に宿る

飛躍する「論理」


本を読むときに、文と文の繋がりに飛躍を感じたことは何度もある。それがなぜなのか、本を読む人間なら一度は考えたことがあるだろう。

  1. A=B

  2. B=C

  3. A=C

これを用いて考察する。以下の話は「ルイス・キャロルのパラドックス」についての話である。本題に入る前の確認のため、知っていれば読む必要はない。

上のものは「❶AがBと等しく❷BがCと等しく➌それ故にAはCと等しい」ということを示す。

ただし、この論理には飛躍が含まれている。とくに、前提❶と前提❷から結論➌を導く箇所が、厳密には飛躍である。

「前提❶・❷が正しいときA=Cになる」という隠れた前提①を結論➌の前に補わなければ論理的とはいえないからだ。

また「前提❶・❷・①が正しいときA=Cになる」という前提②も更に必要だ。前提③も前提④も必要である。無限に前提を足し続けなければ結論➌を論理的に出すことは出来ない。

これは困ったぞ、ということである。それまで曖昧な感覚で論理を作り出していたことが明らかになったからだ。

以上が「ルイス・キャロルのパラドックス」として有名な話である。

本題はここからである。


言葉(「A=B」)と言葉(「B=C」)は、まずもって全く無関係な話である。Aが何と等しかろうが、それはBとは全く関係ない。知ったことではない。AがBと等しかろうが、BはCと等しいだけである

しかし、ただ、これらの言葉が近くに並ぶだけで、それも上下に並べるだけで、我々は「ならA=Cだね」というだろう。

これらの言葉を、それぞれ宇宙の果てに分散して置ていたらどうか。それでも、私がそれらを認識した途端に「ならA=Cだね」と言うだろう。

だとすると、「それらの言葉」と「私の意識」が揃うときに何かしらのことが起きて「ならA=Cだね」になるのだろう。距離の問題ではなさそうだ

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