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好きの言語化って難しい

数日ぶりでございます。
日曜日に京都へ移動し、月曜日は一日中散歩をしたのちに銭湯へ寄ってから新幹線へ飛び乗るという贅沢な過ごし方をした。
振り返ってみるとここ最近で1番ダニングクルーガーした3日間だった。

今回noteの連投記録を忘れて何をしていたかと、飲んでいた。
京都へ出向いたのはお誘いあってプレイリスト会なるものに参加してきたから。秋なので「別れ」をテーマとして5曲のお気に入りを発表しあい、そしてだれが1番グッときたかを決める会。

全てがグッとくる夜だった。
年齢層はバラバラ、つまり聞いている曲のジャンルや年代もバラバラでありながら全てを受容しあうやわらかい空気感・空間へすぐに虜になった。
京都いいなぁ。

結果としては優勝ではなかったもののちょっと良かった。
ただ自分としてはかなり思い出深いし、まだまだ浅いなぁ〜なんて思うところが多かった。そう、ダニングクルーガー。

めちゃめちゃdigってきてるやん!みんな!
それが自分とのギャップ第一位だった。

別れ曲としてあまり曲を聞いてこなかった自分として(そもそも人並み程度にしか音楽を聴いていなかった)、このアーティストはね!この曲はね!何が背景にあってね!
とか言えないことがわかっていたので、資料の構成へ力を入れて補強したつもりだった。いやー、勝てない。

好きこそ物の上手なれ。
好きに勝る想いなし。

『どれだけグッときたか』
みたいな採点基準を設けてくださってたので気づけたのが、人がグッとくる瞬間っていうのは、その表現者がどれだけそのことに悩んだり・考えたり・好きだったりしたのかという熱量なんだということ。

100ページ近いaikoに関する論文を参考文献にしてくる人もいれば、マイケルジャクソンの曲を推し曲を楽しむための起爆剤として仕込む人もいた。
その愛にグッときた。

1本前の記事で書いていた悔しさともリンクする。
これまであんまりdigってきた覚えないなぁ。と
何かがめっちゃ好きってことがなかったことに気づく。たぶん僕含め現代の若者(特に東京とか)は「好き」の深掘りと言語化ができていないのかもしれない。

子供の頃は浅いプールでも物足りたけれど、
成長につれて深いプールで自由に泳ぎたい。なんだったらプールとかじゃなくて海がいいじゃんって思うことが多い。

それと同じで深さを増設していきたいなと思った。
どうせ一緒にいるなら、その人にはめっちゃ泳ぎごたえあるし面白いなって思ってもらいし、それが嬉しい。

もしかしたら自分のどこかにも深く掘れるポイントがあるのかもしれないけれど、その発見と言語化ができていないだけなのかとも思った。

好きの言語化って難しい。
今どうしてその行動をしているのか、には実は文脈がある。
例えば、ぼくが京都へわざわざ行ったことにも体の内側に答えのようなものがあって、それを煮詰めたり・磨いたり・叩いたりすると自分の熱と深さになるような。
そんな気がしている。

なんでもいいから好きなものをディグってみる。
動機を深ぼってみる。

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