マガジンのカバー画像

蜀志劉備伝

19
コーエーの三国志13攻略日記 劉備の仮想立志伝
運営しているクリエイター

2017年1月の記事一覧

三国志13 蜀志劉備伝 #17

三国志13 蜀志劉備伝 #17

黄河を渡る185年6月

 南皮に劉焉軍約四万三千が集結した。攻略目標は黄河南岸の都城済北である。今次出陣の要諦は黄河を無事に渡りきること、そして渡河直後の無防備な状態を黄巾の残党に強襲されることがないよう徐州孫堅軍と連携することだ。陽動として孫堅軍が小沛を攻め黄巾の残党の注意を劉焉軍から逸らすことで黄河渡河を成功させる手筈となっている。

 劉備は全軍の出陣準備が整ったのを見計らって徐州の孫堅に

もっとみる
三国志13 蜀志劉備伝 #16

三国志13 蜀志劉備伝 #16

剛将文醜185年5月

 徐州の孫堅軍との共同作戦を前に、顔良という冀州随一の勇将を麾下に加えた劉備のもとに、別の在野の士が南皮にいるとの噂が流れてきた。弁舌に優れ博学多才と冀州で評判の田豊という人物だ。劉備は政庁に赴き劉焉に田豊の文官としての登用を打診した。

 「田豊殿を採用しては如何でしょうか、冀州に並ぶ者がいないという逸材です」

 「それ程の賢人がまだ野に隠れているとはな、良かろう田豊を

もっとみる
三国志13 蜀志劉備伝 #15

三国志13 蜀志劉備伝 #15

勇将顔良185年4月

 徐州の孫堅軍と幽州の劉焉軍との同盟をまとめた劉備は共同作戦の準備の為本拠地の南皮城に帰還した。その途上で呉巨に遇い南皮に武勇に優れた武人がいるとの噂を聞く。黄巾の残党主力との決戦を控えた劉備はその噂の人物を劉焉軍に加えるべく南皮の街中に出て調査を開始していた。

 4月8日、調査から10日後にその名が判明した。徐州からの隊商を襲撃した盗賊数十人が用心棒をしていた若武者に返

もっとみる
三国志13 蜀志劉備伝 #14

三国志13 蜀志劉備伝 #14

孫堅との絆185年3月

 孫堅から恩人の消息を調べて欲しいと依頼を受けた劉備は、黄巾の残党が支配する預州の小沛に単身赴いていた。孫堅の恩人は賊に村を襲われ行方不明となっていたのだ。幸いにも小沛の治安維持を担当する周倉という義侠の人物によって、襲撃された村の人々は小沛で保護されているという。周倉の協力を得た劉備は保護区域での捜索に取り掛かっていた。

 「孫徐州の恩人とは貴殿のことでしょうか」

もっとみる
三国志13 蜀志劉備伝 #13

三国志13 蜀志劉備伝 #13

孫堅の依頼185年2月

 徐州の孫堅軍と幽州の劉焉軍との同盟締結を成立させた劉備は孫堅と共同作戦の会議を続けていた。北と南から時を同じくして黄巾の残党を挟撃、劉焉軍は黄河を渡河して孤立する徐州を救援するという共同作戦だ。その上で物資不足の孫堅軍に劉焉軍から物資を供給し、帝都洛陽を包囲せんとする黄巾の主力を東から共に討伐するという構想である。

 2月5日、陳留を強襲中の黄巾の残党は官軍の主力と激

もっとみる
三国志13 蜀志劉備伝 #12

三国志13 蜀志劉備伝 #12

孫劉同盟185年1月

 劉備は孫堅が出兵を巡って大将軍何進と配下の陳珪との上下板挟み状態になっているのを知る。碌に物資も支援せず出兵しろと出鱈目な命令をする何進、物資窮乏を理由に出兵を渋る陳珪に孫堅は頭を痛めていた。劉備はまず孫堅の鬱憤を一騎討ちで発散させ、悩みの根源である物資不足を劉焉軍が補うことで問題が解決できるよう、孫堅軍と劉焉軍の関係構築に奔走していた。

 

 1月9日、黄巾の残党が

もっとみる
三国志13 蜀志劉備伝 #11

三国志13 蜀志劉備伝 #11

孫堅の武184年12月

 下邳での宴席を契機に、孫堅陣営の諸将にも劉備に親しみを表す者が出始める。劉焉軍からの物資援助に懐疑的だった一部の幕僚も考えを改めざるを得ない流れになってきた。黄河の南に蔓延る黄巾の残党を一掃する為に劉焉軍は河南での協力者が必要で、孤立する孫堅軍は金銀兵糧などの物資が不足していた。孫劉は連合すべし、その流れを劉備は作り出していった。

 「玄徳殿、今度は兵糧に困っておるの

もっとみる