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拝金主義 と 排金主義

明らかに困窮している人が福祉制度を利用しないことに関するモヤモヤの正体がわかったので記録。
困窮者支援や生活保護を利用すれば良いレベルでも福祉のお世話になるのを拒む、アルバイトでも就職でもしてしまえば良いのにフリーランスで頑張る、というのは拝金主義ならぬ「排金主義」なのである。自分は「拝金主義」に寄っているので、「排金主義」とはわかりあえないのも道理。という発見を書くよ。

拝金主義はこんな感じ。
・たいていの不幸はお金で解決できる。
・同じ時間をかけるなら少ない体力少ない手間で高い価値を目指す。
・一人でできることには限界があるし一人では効率も悪い。

排金主義はこんな感じ。
・お金があっても幸せとは限らない。
・人に雇われるとは自分の意思や主義主張を殺すこと。
・自分の実力で食べていけなければ死ぬまで。

どっちも間違えてはいない。繰り返すが、喩えるなら信仰。だからこの対立軸は永遠なのだと思う。
例えば、拝金主義サイドから「アルバイトで良いから定期的にお給料をもらって、休日や就業時間外に好きなことすれば良い」と言っても、排金主義から見れば「自分が心の底から同意と納得できる仕事100%でなければ、そんな事でお金をもらうなんて自分を殺すのと同義」となる。生活保護だと基本的には本人が就労に向けて努力するのが前提でケースワーカーが張り付くから(つまり就職して働けってプレッシャーかけるから)、排金主義的には受け入れられないのだろう。

では、排金主義者にお金を渡すとどうなるか。
お金があればすぐ使う。買い物の瞬間は幸せだ。欲しいものも食べたいものも行きたいところも、普通にあるから。
排金主義者が一番幸せなのは「自分が考えた方法」で、生きるのに必要な収入が入ることなのだろう(一番の成功事例はホリエモンか)。社会の歯車にならず、主体的に生きる。自分がブランド。排金主義とは、自分の自尊心を崇拝することなのかもしれない。

こんなことを書きながら、ふと「詳細に指示を出せば出すほど無能になる人について」というBlog記事を思い出した。

-----以下部分引用-----
働く人は以下の2種類に大きくは分けられる。
「自分の意思決定の正しさに価値を置いている人」
「自分の仕事の結果に価値を置いている人」
である。
-----以上部分引用-----
前者が排金主義、後者は拝金主義とほぼ重なる。
排金主義者にとっては「自分の意思決定の正しさを認めない世の中の方が間違っている」のである(その世の中っていうのも顔のわかる付き合いに範囲が限定されてたりするのだけど)。
一方の拝金主義者は、結果重視なので自尊心もプロセスも気にしない。自分が間違ってることもあろう、と周囲の助言も素直に聞くしチームで助け合うために価値観も力量も合わない人との協力も苦にならない。運が良いと組織で重宝されてポジションが確保される。

もっとも、サラリーマンの場合は「自分の意思決定の正しさ」を重視しながら、お金にもめちゃくちゃ執着するタイプもいる。自分の父とか今の部下の一人がそう。このタイプが一番やっかい。あっちこっちで自分の意思決定の正しさを認めない人と戦いまくり、敗れるとストレスを周囲にぶつけて発散するので。
そう考えると、戦う相手がせいぜい家賃滞納にしびれを切らす大家くらいで済むだけ、フリーランスの方がはるかにマシなのかもしれない。

拝金主義的には、プライドや実力なんぞより、ちょっと無になってレジに立つだけで確実に食い扶持を稼げる方が絶対に幸せなのだけど。
排金主義的には、ちょっと無になってレジに立つことで、めちゃくちゃ傷つき立ち直れなくなるのだろう。
そういえば自分の身内にもいた。高校生の時に初めてアルバイト(単発)に行った後で「自分が仕事の挨拶も満足にできないのは母親が教えてくれなかったから」と泣きながら母親に抗議してた。初めてのアルバイトで何もかも完璧にできるわけがないのだから失敗しても大丈夫、これから少しずつ覚えれば良い、と長期的客観的に考えられない狭量さ。自分の実力はもっと高いはずと見当違いな自負。この二つがその後の職業人生でも大きなストレス源となり。現在メンタル不調で絶賛無職生活中。「山月記」にも描かれているとおり、高すぎるプライド(というか、自尊心にばかり注目してしまう視野の狭さ)は軋轢の元なのである。

という流れで考察すると「困窮しているフリーランスへの人助け」というのは、助ける側が思うほど助けられる側にはありがたくないものなのかもしれない。むしろ、困窮している現実を突きつけられるだけ迷惑なことなのかもしれない。
家賃を滞納される家主や少額貸しても返してもらえない友人知人はいい迷惑だけど、それらの人々よりも「自分の意思決定」「自尊心」が大事なので。それもこれも信仰と理解すれば納得。

ただ、気になるのは、なぜそこまで「自分の自尊心」ファーストになってしまうのか、というところである。
いや、信仰なんだから理由も理屈も無いのだけど。たまたま最初に就いた仕事がいわゆるブラック職場だったり、ブラックでなくても嫌な同僚ばっかりだったり、あるいはお金に執着する身内に辟易しながら育ったとか、逆にお金に困ってるのが当たり前の環境で育った、とか、何か本人にはどうにもならない理由があるのだとしたら、それも気の毒な話だよなあ、と。
生まれの不幸を呪うがいい、ってやつなんでしょうか?
自分の気の持ちよう一つで困窮は解決する。
でも、その「気の持ちよう」は容易には変えられない。