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現実の見え方 2024/01/15

見たいものの先を観る。
感じたいものの先を感じる。
そこにあるものの奥をみる。

わたしが観ているものはいつもそこにある。
ここにはないが、ここにある。
それをみている。
そして、ときにそれを表現して伝えてさせていただいている。

わたしが観ている《見えない》ものを、わたしが観ていると感じて受け取って認めて《見える》世界に現しているのはわたしで、つまりわたし自身の媒介をわたしはしている(ここでわたしと表しているものはわたしであり魂であり大いなるものみたいなもの、それら全てを孕むものかつ、わたしでしかないもの)。

わたしはここにいるけどここにいない。でも確実にここにいる。だからこそここにいる。そういう結びを、ずっとしている。だから、わたしはここにいるという体験をしていると思っている。ここにいるという体験をしているから、そういう感覚にたどり着いたし、そういう感覚に辿り着いたのはそこにそれがあるあった / あったあるからだし、わたしがそれをそう決めているからだ。

わたしは自分には決める力があると思っている。
同時に、決めない力もあると思っている。
決めることを決めるとき、決めないことを決めている。
それらの相反する事情は常に共存していて、離れることはない。それがこの世界の在り方であり、真実だからそうでしかないともいえる。その中で、わたしの中で決まっているもの・・・・・・・・・・・・・・を、感じて受け取って認めて現す、それを繰り返しているだけ。自分の中で起こるべくして起こっている循環を、起こるように起こしているだけだ。それを、自他に対してその区別なく / ときに明確に区別して、巡らせているだけだ。

ずっと自分のことを決めるのが苦手で、決められない人だと思っていた。決めたらもう変えられないから、決めるなんて恐ろしいことできないと思っていた。決めることを恐ろしいことだと思っていたのは、間違えることを自分に許してなかったからで、間違えることを自分に許していなかったのは、正しさ正義いうものを決めるのが世間わたし以外だと思っていたからだ。

わたしの外の世界にあるものに自分を100%添わせることを「決める」だと思っていて、わたしの外にあるものなのに100%添わせないと正解ではない間違いであると思っていて、だからそんな難しくてハイリスクで経験や証拠や理論や根拠や誰かの許可など、わたしの中にないものをひっくるめた正しさ正解を、自分が決めるなんて!そんなこととてもできない、したくないと思っていた。間違えることが自殺行為で、間違えたが最後自分の居場所も価値も存在理由もなくなると思っていた。思っていた、と書いたが、思うどころか心底陶酔してそう信じ切っていた。だから、決めるなんてこと怖くてできなかった。

だれか、誰か助けて。だれか、正解を知っている人がいるなら、わたしにそれを教えて。教えてくれたら、その通りにするから。間違えずに済むなら、既に許されたものを与えられるのなら、それを受け容れることで存在していていいのなら、だれかが愛してくれるなら、喜んでそうするから。むしろそうさせて、わたしはわたしで居られなくなることが、怖くて仕方ないから。

だれか、わたしの名前を教えて。
その名前がわたしだと・・・・・・・・・・・わたし自身に思い込ませて・・・・・・・・・・・・・・・
そこから醒めないようにしていて・・・・・・・・・・・・
なぜなら、それがわたしの欲しいもので、それがわたしの願いで、祈りだから。

今ここに書いたことは、正解であり、同時に間違ってもいる。
なぜなら、ここに書いたことはわたしが求めていることではあったが、同時にそれを手放してもいる祈りだったからだ。こうやって、人は欲しいものを欲しながら、同時にそれを自分に与えないということをしている。もし、人に罪があるというなら、このことをそう呼ぶのかもしれない。

少し脱線したので、話を元に戻します。
つまり、わたしが言いたいことは、わたしが教えて欲しかった《正解》は、誰かに許されたり愛されたりするための《条件》で、その対価として差し出していたのは《本当の自分》だったのだ、ということ。

《本当の自分》を差し出し続けることで、この世界にいるための許しを、愛を、自分自身を得ていた。それを受け取ると決めていたのなら、そのときのわたしは間違っていなかったと今のわたしは強く思う。
だから、かつての決められなかったわたしも、わたしであることを他者に許されることを望むと決めていて、それを叶えていた。

今は違う。

今は、それらの全ては自分が自分に与えるもので、それは同時に享受できるものだと確信している。わたしがかつて助けを求めていた「誰か」はわたし自身であって、他の誰でもなかった。でも、その選択肢を自分から採り上げていたのも他でもないわたしだった。なぜなら、わたしはその頃、そうすることでしか生きられないということを体験するという学びをしていたプロセスにいたということなのだと、理解しているから。

ここまで書いてきて、わたしが今日書きたかったことのタイトルが「現実の見え方」だったことの意味を、再び強く、噛み締めている。

わたしが変われば現実は変わる。
受け取り方が変わるから見え方が変わる。
その視点で、味方で世界現実をみるとき、この世界の全てはそのようにみえる。
だから、世界は鏡なのだ。そして、そこには望むものが映っていること、そのものの映り方には自分が映し出されることを知っている必要がある。なぜなら、湖面が澄んでいることが、ありのままを映し出すための最低かつ必須条件なのだから。

だからといって、湖面が澄んでいないことや、例えばそれに付随して、仮に澄んでいない湖面に映し出されたものや、それ故に導かれ体験した世界にいた(或いはいる)自分が間違えているいたのかというと、決してそうではない。

ありのままが映らないこと、そしてそれによりありのままではない世界を体験していること、それこそが今、あなたの鏡に映し出されている真実であり、必要な学びであり、クリアである=ありのままのわたしである、ということなのだから。


2024/01/15 (15/366)


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