正しさと真実と 10/22 ※追記あり

正しさに直面すると身体が硬くなる。
何度も書いているが、正しさというのは武器だ。
それは、時として他者の息の根を止めかねないものだ。

それは、正しさには正しい以外の選択肢がないからだと思う。
正しさと似て非なるものに真実がある。
真実にも、真実以外の選択肢はない。
が、それはそもそもそういうものだからそれでいいし、真実に真実以外の選択肢があったら困る。

正しいことを正しいということって、正しい。
だから言葉上齟齬は無いし、正解だと思う。
ただ、わたしはそこに息苦しさを感じる。

それ以外にも正しさはいっぱいあるから。
その正しさに真っ向から対抗する意見があったとしても、それはそれで正しかったりするから。

正しさと正しさの衝突には終わりがない。
だから苦しい。
ずっと苦しい。終わらない。
それは直感的にわかる。
この意見は、この議論は、ずっとわたしにのしかかってくるやつだ、と。

だから、わたしは先に降りることを覚えてきたのだと思う。
その土俵に乗らない。
乗りたくない。
だって、意味が無いから。
戦いたいんじゃない。
分かり合えなくてもいいから、分かり合えないことを分かりたいだけ。分からないことが分かったら、どの距離感でいればいいか(自分が居たいか、お互いにとってのそれも含めて)を決めたらいいから。

正しさと真実。
それは、イコールのことももちろんあると思う。
わたしにもある。
イコールになりきれていないものも含めて、きっとたくさんの概念が、今日もわたしの中をぐるぐるしている。

ただ、そのふたつに対して、自分が、或いは他者が、どういう風に融け合っているのかはなんとなくわかる。それはたぶんVibesを感じているということになるのだろう。

その感覚を、見極める必要がある。
見極めるというのは、どのわたしがそれを感じて反応しているのか、ということだ。
一言に人間のわたしといっても種類やジャンルがたくさんある。過去のわたしが過剰に反応していたら、それはある意味冷静な判断では無い。かといって、間違っているわけでもなく、今それを感じていることには大きな意味がある。大切な感覚だ。でもその感覚は、もしかしたら認識違いしてしまっていることもある(本当は好きなVibesなのに、傷によって嫌いなVibesとして認識されていることがあるということ)。

🌿

過去にも色々書いているけど(正しさについても、言葉についても)、このnote☟で語っている内容とは全く違うことを書いている(という認識でいる)なぁと思って、逆に面白かったので貼ってみました。

この「ひとりよがり」の状態になっているとき、まわりは自分の正しさを証明するために存在しているみたいになっていました(います)。
そんな時の自分は、頭の中が「何も出来ない」「気が利かない」「要領が悪い」のオンパレード・・・。で、その状態を引き寄せるから、周りは全部そう見えていました(います)。

これは全部主語が省略されていて、その主語とは、『わたし(に比べて)』。
だから、自分基準の正しさの世界に自分で自分を幽閉している状態、ということになる。

自分を擁護するようで恥ずかしいのですが、たしかに間違ってはいない。狭い自分の世界の中では、という但し書きがついてしまいますけど(つまり余計恥ずかしい)。
そもそもできる、気が利く、要領がいい(と思ってる状態)から、周りができないのにイライラする。でも、それは自分がそうしたいからしてるし、そうじゃないと、自分の気が済まないから。
人の中に見る、自分の中の醜い姿|のびたまご

この中に出てくる、

「なんであなたはわたしじゃないの」
人の中に見る、自分の中の醜い姿|のびたまご

とは、今はもう一切思わないなぁと。
こんなこと思ってたんや!と思った。
だから逆に面白かった。

🌿

話を戻します。
感覚を見極めるという話。
どのわたしで感じているのか。どう感じているのか。それは、自分の中にある定義によって(思考によって感じることは変わることが(も、かな)ある)左右されるものなのか、実は感じたいものなのか、今の自分には不要なものなのか。

正しさ、という言葉に対してわたしが感じているこの窮屈な感覚は、恐らく遊びがないこと、決めつけ、押し付け、みたいなものから派生している。実際、今これを書いているときの体感が最悪で、身体のざわつきがすごい(うまく文書が打てないレベル)。
※ なのでここでちょっと身体を動かして意識を逸らして、また続きを書いてます。

真実には、さっき挙げたようなことが全く混ざっていない。遊びがあるものだし、決めつける必要は無いし、押しつける必要も無い。ただそうあるもの=真実だから、たぶん真実に属するもの、該当するものからはそういうエネルギーは感じないのだと思う。

話が元に戻りますが、だからこそ、やはり「どの自分が見ているか」の見極めができないと、それを真実と判断することは難しい。と同時に、真実とは最早疑いようのないものだから、その感覚に合わないものは全て真実では無いのかもしれない。

でも、そのときの自分、その場、そのときの状況における真実というものも存在する。となると、真実についても定義がないもののはずなのに定義をすることになってくる。あ、それは違いますね(気付けてよかった)、条件とか、但し書きみたいなものがある方がやさしい、みたいな感覚なのかなと思いました。

時間の長さにおける真実というものもある。
この時代ではこれ、みたいなもの。
それは、一人の人間の中でも起こりうることで(だからどの自分が見てるのかの見極めがいる)、でも表面に出ていること・体験していることは違っていても、少し奥をじっと見つめてみたら、そこに共通する真実、というもののの姿が見えてくる。そこに浮かび上がってくる真実は、おそらく『使命』に近いもののはずだ。

たぶん、正しさと真実について書きながら、他にもいくつもの概念や感覚が混ざっていて(書いてみたら入り組んでましたね)、ひとつの話としてまとめるのに限界を感じるので、今日のところは書きたいことを書きたいように書いて、一応どこか(多分それは『使命』のくだり)に辿り着いたのでこれでいいことにしようと思う。

🌿

そして、(一応)書き終えて思ったことは、正しさと真実とわたしの関係性って、たぶんわたしと父親との間にある関係性だ。

さっき、

「なんであなたはわたしじゃないの」
人の中に見る、自分の中の醜い姿|のびたまご

という言葉を過去noteから引用した。

この言葉は、たぶんわたしがずっと心の奥底で思ってきた/今も思っているであろう、「なんでわたしはあなたじゃないの」という言葉から転じて生まれてきたものなのだと思う。

そこにはきっと、「わたしがあなたになれたら良かったのに(なれなくてごめんなさい、なれないんですごめんなさい)」というわたしの気持ちが存在している。

その人になれれば簡単なのに。
わたしがあなたであったなら、あなたを理解することができるのに。
だって、わたしがあなたなら、わたしはあなたなのだから。
ずっとそう思っていた。
だから、それが出来ないことに気付きながらも、ずっとどうにかしてそうできないかを探ってきた。でもできない。それは絶対にできない。

その人になることはできない。
でも、その人の魂と繋がることは出来る。

その違いを、わたしはずっと知りたかったのかもしれない。そして、それを通して、ずっとわたしと向き合ってきているのだろう(そして道は続く)。

実は最近ハマっているピースの又吉直樹さんのYouTubeの、こちらを見たときに(22:33からのところ)、なんかちょっと嫌悪感あるけどめっちゃ気になる、みたいな感覚があって何でだろうと思ってたけど、こういうことやったみたいです。

ちゃんと必要なことは引っ掛けてる。違和感を大切に、でも答えは決めずに浮かせておくことは本当に大切だなと思った。だって、この時感じた違和感はどちらかといえば心地よくなかったから。でも、それは自分の中にあった感覚だった、ということ。もう少し正確に表現するなら、あって欲しいと切に願っていたからこそどうしてもそれは難しいということに気付けた感覚ということ。

上手く浮かせておけるようになってる自分に万歳。

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母子分離にばかり向き合ってきたけど、実は父子分離(という言葉があるのかは知らずに書いてます)もあったんだな、と気付いた10/22の朝でした。


おしまい。



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