親切について考えたこと

 今日、職場で困っていたお客さんを助けた。
 受付へご案内をしただけで、いつもの仕事の内なんだけど、なんというかとてもフレッシュな体験でした。
 あの、親切が苦手でして。だから今日みたいに困っている人を見るとけっこう緊張しながら声をかけるんです。でも今日は緊張しなかった、というか頭でぐるぐる考えることもなく声をかけていました。
 そもそも親切ってなんでしょう?
 Googleにぶち込んでみます。

「思いやりが深く、ねんごろなこと。好意をもって人のためにあれこれと計ってやること。」

 え? ねんごろ? ねんごろってあのトレンディーワードのねんごろ?

ねんごろとは
「とても親密な付き合いをしているさま、あるいは、男女が男女の関係を持つような深い仲であるさま、などを意味する表現。」

いやいやいや!(夏侯覇) 親切のことが分からなくなってきました。
 親切、子どもの頃はできていたと思うんですよね。おばあちゃんに親切だねえと褒められたこともよく覚えています。それがいつからできなくなったのか。明確にここ!とは言えないのですが、過去の二つの出来事がきっかけになったのではないかと考えています。一つは小学校のときのイジメ、二つ目は社会人になってからのパワハラ。はー、自分でも執念深いなあと思うんですけれども、なかなか忘れられません。そして、今でも怒ってます。
 小学校5年生のとき、今まで仲良くしていた友人から急に強い言葉で馬鹿にされるようになった。優しくしたりされたりすることが当然だと思っていたのに、それが間違いだったんだとショックで、その時から人から嫌われないように馬鹿にされないようにすることが行動の目的になった。中学校、高校、大学とその考えは重くなったり軽くなったりして、社会に出ていくころにはしっかりと根付いてしまった。
 どうも、私は上の立場の人からいじめられやすいようです。おじさんからもおばさんからも職を変えてもパワハラを受けることが多くて、人は怒られ続けると自分の意思で行動することができなくなります。自分が手を出したらまた迷惑をかけてしまうのではないかという恐れが生まれるのです。怖くて動けないけれど嫌われないためには動かなくてはならない。そうなると脳がパニックになって、何も考えることができなくなる。立っている私に彼や彼女は言う。
「困っている人がいるのにどうして助けないんだ、ボーっとしやがって、使えない」
 焦って焦って焦って、なんとかしたくて。
 過剰に親切にしようと張り切った結果、空回りして自分の首を絞めてしまうという日々が続きました。今だから笑い話にして、強迫性親切症と名付けてみます……うーん、改めて今は幸せだなあと思います。良かったなあ、私。親切ができなくなったことを人のせいにしてみたという話でした。
 そうしていくつかの職場とパワハラを経て、ようやくそういったことから離れることができて、それから少し時間が経って、ようやく今日、困っている人をまた助けられるようになりました。時間を重ねて、固まってた考え方がだんだんと自由になってきたということでしょうか。というか、私、そもそも親切が得意じゃなかったのかもしれないです。正確に言うと、親切しようと思って親切するのが得意じゃない。
なんか気分がいいから周りに優しくしとこうみたいな、もっと自分勝手なほうが性にあっているのかもしれません。はーあ、ようやく人間らしくなってきたなあ。
 このタイミングで、大好きな漫画がアプリで全話無料公開になったので、その中の気に入っているセリフを引用して今日は終わりです。

「余裕のある人間は周りに優しくできる。自分の幸せを分けてやりゃあいいんだよ。」

(相田裕先生の大青春生徒会漫画『1518! イチゴーイチハチ!』は漫画アプリ、マンガワンで13日まで無料で全話公開中!読もう!)

 好きなもの、楽しいもの、興味深いもの、たくさん触れてできるだけご機嫌でいたいと心から思います。

今日も一日お疲れさまでした。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
のび

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