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 あの恐ろしい地震があった日は、自分の家から遠く離れたところにいた。その時間、公園の大きな木から鳥が一斉に飛び立つところを見た。どこかから聞いたことのない低い音が聞こえてきて、次の瞬間、大きく視界が揺れた。足下が揺れていることに意識が向く前に立っていられなくなって、吹き飛ばされたみたいに公園に倒れ込んだ。顔を上げると家の屋根の瓦が空を飛んでいくのが見えた。

 クローズアップ現代を見る。
 いきなり故郷を奪われるということはどういうことなのか。すぐそこにあるのに、跡形もなく消えてしまったわけではないのに、行くことは許されない。怒りや戸惑いや悲しみは理解されないと思いますよとインタビューを受けた人が言っていた。その通りだなと思ってしまう。私の家は海沿いでもなく、帰宅困難区域でもない。今もそこに暮らしている。そんな自分には想像することさえ不可能な気がしてしまう。それでも私は今日見たことについて、考えようとするし、想像しようとする。
 あの恐ろしい地震を境に自分が変わってしまったとずっと思っている。どこがどうとはうまく言えないけれど、自分が弱くて、周りに流されやすい、とっさの時になんの役にも立たない情けない人間なんだと分かってしまったのだと思う。自分に失望したのかもしれない。そうやって9年過ごした。今また自分が変わろうとしているのを感じる。ブレていた虚像が重なったような感覚がする。今の私には希望がある。期待もしている。何を言っているかわからないかもしれない。私のことは私にしか分からない。あの恐ろしい地震に巻き込まれてしまった人々の心の動きはその人本人にしか分からない。私たちには考えることしかできない。私たちには想像することしかできない。それは無駄かもしれないけれど、それこそがあの地震で失われたもの、変えられてしまったものに対抗する唯一の手段だと思う。今日もお疲れさまでした。おやすみなさい。

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