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個々のパフォーマンスが作り出す「〜のために」がブログという畑を耕すという事。

いろいろマネージメントしていると、大小問わず様々な解決事項がわきでてくる。

その都度、クリアの仕方を試行錯誤しゴール地点までの距離と時間を考える。

Aくんがパフォーマンス力を20、仕事スピードは50持っています。Bくんはパフォーマンス力を80持っていますが、仕事スピードは15です。期待値80のゴールまでの取り組みたい案件を任せる場合、どちらにお願いしようか迷う。

みたいな。

自分でやってしまえば取り掛かりもスムーズにある程度の効果、結果はある程度の期間はでる。だが、これまでの経験からすると、浸透率が弱くどうしても20名くらいのスタッフがある程度平均的なパフォーマンスを生み出せていないような気がする。自分1人で盛り上がっても持続力に欠けてしまう。ヒトの集まりなので、全員が全員いいパフォーマンスを生み出す事は難しいのかもしれないし、そこまでは期待はしていないが、高得点をたたき出す人材が多い方が全体のパフォーマンスを作り出す事も確かだ。もちろん全員でレベルを上げたいと思うが。


パフォーマンスて、イメージ的には生産性てことなのか。

みんなが同じ事をできていても仕方が無いし、それぞれできることで生産性を高めていけるといいと思う。

それぞれが

何の為にとりくむのか、

取り組むと何がえられるのか、

なぜやるのか。


例えばこんな事。

※※※

取り組み:サロンブログをみんなで書きましょう。

目的:お客様に有益な情報を提供する。新規集客。

得られる事:どういうコンテンツを書くか考える。そして伝えたい事をどのように書くとおもしろくよんでもらえるか。どのような写真を使ってイメージしてもらうか。このプロセスが発信するチカラを身につけると考える。

※※※


「ブログなんてイマドキ読まないよ」

なんて事を言う若者がいた。👈(何だとこのヤローとおもった)

まったくその通りだ、と心のなかで思う自分もいたのは確かだ。

ただ100%そうであるとは言い切れないから,やる意味があるのだと思う。言ってしまえばこのnoteだって、だれが見ているかわからないが、誰かは見ているかもと思いながら書く。書きたいから書く。noteはただそれだけだけど。

だけど、ブログなんて誰も見ないよというのは彼の了見だし、げんにお客様からサロンワーク中にリアクションを受けるときもある。

お客様「ブログ見ていて、おもしろいですね。」

コレだけでやっている意味はあると確信する。


さてパフォーマンスの話に戻るが、10人中5人は決められた日に、期待通りの記事を書き上げる。そして3人はそこまでやる気は無いが、一応仕事として書く。そこに修正や訂正のやりなおしで2,3回のやり取りが必要となる。そして残りの2人はこんな感じだ。

自分「そろそろブログかこうね。」

青年「すみません…。」

自分「いや、スミマセンじゃなくて。いつできる?」

青年「書きます。」

求める答えに対し、2,3歩遅れた答えが帰ってくる。パフォーマンスの良い答えは1歩、いや2歩くらい先の答えが出てくるといいのだろう。

自分「ブログどう?」

青年「今、下書き中です。いくつかテーマで悩んでいて、少しリサーチしていました。」

自分「それで、きまったの?」

青年「はい、今日午後、空いている時間を使って写真を用意します。今日中には書き上げます。下書きが終ったらLINEするのでチェックをお願いします! 実は次の記事も、もうある程度考えてあるんです!」


すばらしい、何のストレスも感じない。これは期待し過ぎなのだろうか。


書くという事に抵抗感や、苦手意識を持つ事は仕方のない事だと思う。でも考えようとしているか、していないかは書いている記事の内容や、やり取りしているとわかるものだ。「何の為に」が大事だと思うが、その「何の」という部分への思いみたいな物が根本から違うのだろうか。

一人一人が、「〜のために」という意識をもつ。

お客様のために、スタッフのために、たまたまブログを見た誰かのために、自分のために、そういう思いを持つ事ができるにはもう少し時間がかかるのだろうか。


まあでも言ってしまえば、できる人だけがどんどんやればいい話なのだが,平均化してしまっている労働条件の中では不公平さが生まれてきてしまう。だから、パフォーマンスのいい人が損をしてしまう。そこはまた改善していきたいところだ。


また課題が1つできてしまった。さあ、帰ろう。










全体的な構想の到達点がしっかりきまっていないと

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