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命の取り合いについて

今回はなんとも刺激的な話題について思索したい。現在、平和なのか平和でないのかわからないが少なくとも命の取り合いが行われていない場所は多く存在する。同時に戦闘で絶えない地域も存在する。

なぜ命を取り合うのか

まず、ずっと昔にさかのぼってみる。するとこの問いに対して答えられるのは弱肉強食世界。つまり、相手を食べるために命をとる。
さらにはお互いの縄張りを争って命の取り合いを行うことがあった。これは人間の世界でも未だに続いていることだ。
次はこの縄張り意識に焦点を当てる。

なぜ縄張りを求めるのか

この問いに対して簡潔な答えを求めるとするのならば、安心感というキーワードが挙げられるだろう。食料、資源等の安定。信頼できる仲間との共存。

この縄張りは現在での「居場所」の意識と密接にかかわってくるため、いつの日かまた居場所の話題として取り上げたいと思う。

話を戻すとこの安心感を手に入れるために手段を問わないもの、つまり暴力的・狡猾的な生物が命の取り合いを行う。

結論

生物が自分の居場所を求め続け、そのためには手段を問わない輩がいるから。

Column

現代の人間に話を置き換えて考えてみると、人間は主に縄張り争いをして殺し合いをする(カニバリズムがあれば別だが)。
だが人間には理性がある。つまりあえて生かすという手段もあるのだ。しかし、それは狡猾な手段で自己の慈悲のためでなく他人の慈悲のために生かす。人質である。自らの縄張りのためには手段を択ばないというわけだ。

少し踏み込んで考えてみる。
例えばあなたが戦場にいたとして、目の前に敵とされる人物がいる。その人は銃弾の弾を使い切って丸腰状態。あなたは銃弾が入った銃を持っている。
おっと、丸腰状態だと思っていた敵がナイフを持って突進してきた。危ない。この時あなたは敵の命をとるだろうか。つまり、脳か心臓などの急所に迷わず弾を撃ち込めるだろうか。

――はい。迷わず撃てます。と言った人。
よろしい。あなたは理性を失い奴隷となった。

――迷いました。けど、撃つしかなかったんです。
――……撃てませんでした。

ここで重要なのは撃つことを迷ったか迷わなかったかであり、さらに迷ったのであればどうして迷ったのかということである。

なぜ迷ったのか。
これはよく映画などでも描かれることの多いシーンであるが、迷う理由はずばり「痛みの共感」だ。
身体の痛み。「もし自分が敵の立場だったら……」となぞる行為をする。
より理性的な人間は関係の痛みをも想起する。例えば敵の家族、友人を勝手に想像して勝手に躊躇するといったことである。

人間は他者に共感する能力を有することはとりあえず確かなことである。この、相手に入り込む。ということは西田幾多郎が述べた絶対矛盾的自己同一に通ずるものがあり、尊重されなくてはならないものである。

というわけで私はもし怪我をしている人を見かけたらこのように述べる。
そしてこれは最強の合言葉である。

「痛いの痛いの飛んでけ~」





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