見出し画像

群衆 ⑧

男は家路についた。
男はいつもの道を通って帰った。
この人だかりに紛れるのはなんとも心地のよいものであった。
男は自分の居場所はやはり群衆にあることを自覚した。
夕日が美しく輝いていた。
しかし男はそんなものに微塵の興味も感じなかった。男には何らかの感情が欠落していた。

男は群衆の中を歩きながら考えていた。
男は両親に会ったことが無い。自分が何処で産まれたのかもわからない。
男は物心ついた時から児童養護施設にいた。
男はあまりにも堅物な人間であったことから、周りに敬遠されることは日常茶飯事であった。
男は愛情を知らない。愛情が何なのかを理解していない。
男は施設の図書室で施設生活の大半を過ごした。
その図書室には日本の歴史を物語る書物が豊富にあり、男はそれを隅から隅まで夢中になって読んでいた。
男は日本史の中でも戦の史実を事細かに調べ上げた。
男は日本人の獣の部分を目にすることを欲していた。
日本人は他者を尊重することに長けている一方で冷酷な残忍さも持ち合わせている。その残忍さを具現化するのが戦である。
その様に男は美しさを感じていた。戦う前に名乗りを上げる武将、武士、神風、竹槍隊、集団自決。この狂気性を孕んだ物語を日本は有しているのだ。

対して茶、生け花、和式、舞踊。これらの穏やかな文化を育む一方、いつでも日本人の残忍性は付き纏ってきた。
男はそれを書物を通して感じ、愉快な心持になるのであった。
そして現代の世を嘆くのであった。
群衆は必死に内に眠る残忍性を隠そうとしている。群衆から逸脱することを恐れているからだ。
しかし皆がその残忍性を抱えているのだ。なにも恐れることはない。誰かがその残忍性を露わにすれば誰かはそれに乗じるだろう。そうして連鎖が続いてやがて群衆を形成するのだ。進化や退化、時代背景なぞ関係ない。いついかなる時でも日本人は心に獣を有しているのだ。

男は家まで半分ほどの距離を歩くと、ふと脇に目をやった。
すると男の目は輝いた。

――デモ隊だ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?