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群衆 ⑤

二十分ほど待って、店に入ると男は懐かしい感情を抱いた。
この店の取り巻いている雰囲気が男の好みだったのである。
店内に溢れる木札のお品書き。カウンター席から見える亭主の佇まい。騒がしい店内。昼時でもこの状況なのだから夜はさぞかし酒も相まって騒がしくなることだろう。
男は手元に置かれていたメニューを眺めた。
男はそれほど迷わず、またメニューに一通り目を通すこともなく「おすすめセット」と書かれているものを即座に頼んだ。
男は意思決定が苦手であった。
待っている間、またしても男は携帯を見る——ふりをして隣にいる客の会話を聞いた。
会社の仕事がどうだとか取り立てて面白くもない話をしているようだった。男は苦笑した。
やがて男のもとに頼んだものが配膳されると、男は黙々と食べ始めた。男にとって十分に舌鼓を打つものであった。
しかし男は感情を決して表情に出さない。
男が何を考えているのか、他人が当てられたことは一度もない。
いや、当てようと試みられたことすらなかった。
堅物の男は忌避されてきた。男の知らぬ間に。

男が黙々と食事をしている間、先までひっきりなしに来店していた客足が束の間途絶えた。
そのおかげで暇がうまれたのか、亭主は常連客とみられる人物と会話し始めた。
「どうだい?最近の売れ行きは」
「見ての通りさ。いや、本当にありがたいもんだよ」
「そうだよなぁ、この店だけはまだなぁ…昔はあんなに活気があったこの街も今はもう…」
その常連客の隣にいた客が言った。
「なんでこんなに軒並み閉店しちまったんだい?」
「あーそうか。お前最近こっちに来たから知らねぇか」
常連客が言った。
「近くによ。でっけぇ施設ができたじゃねえか」
「あぁ、GENZO(ゲンゾー)のことか?」
「そう、それ。あん中にはなんでもあるからよ。ここに来てた人もそっちに取られちまったんだよ。全く残されたこっちの身にもなってみろってんだよ」
再び客足が増えてきた。三人の会話はそこで終わった。

男は神妙な顔つきでその会話を聞いていた。
群衆だ。群衆は流行に流される。
古きよきものなどいとも簡単に忘れてしまう。残された者のことなどどうでもよいのだ。
男の顔は険しくなった。
だがしかし。伝統は無理に守ろうとする必要はない。どれほど苦心を重ねてもいつかは忘れ去られてしまうことだろう。然れども伝統の内に眠る精神性だけは遺し受け継がなくてはならない。縁故があろうとなかろうとどうでよい。誰かがその精神性を受け継ぐことが重要なのだ。
そう男は考えながら、目の前の炒飯をひたすら口に掻きこんでいた。


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