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ルッキズムはアプリオリなものか

ルッキズム(外見至上主義)とは私がこの世で知りたくなかった言葉の一つである。
いつの時代になってもやれこの人は美しいだとかやれこの人は不細工であるだとか言う人は後を絶たない。この他人に対する美的感覚というものは我々に生来の感覚なのであろうか。今回はそれを考える。

①先天的とした場合

例えばルッキズムを先天的なものとしよう。つまり人は生まれたころから美が何かを知っているというプラトンのイデア論的な考えともいえるかもしれない。
しかしながらちょっと考えてほしい。
過去日本で美女だと思われたのキメの細かい白い肌 ・ふっくらした頬 ・サラサラした艶のある黒髪 ・体型もふくよか ・大きな顔 ・鼻筋が通った小さな鼻 ・おしとやかな口などを有する女性であった。和歌が詠めるなどの教養も重視されたという。
また江戸時代に至っては武士の髪型はちょんまげであることが当然であった。
海外の国を見れば肥満である人が美しいとする価値基準が存在する国もある。
仮にルッキズムが先天的ならばこれほど美的対象がばらばらになるのは考えにくい。となると後天的つまり後付けによってルッキズムが備わるということなのだろうか。

②後天的とした場合

しかしルッキズムが後から備わったものと考えてもまたある問題が生じる。ルッキズムの始まりである。
ルッキズムにおいて美的対象は時代によって移り変わる。美的感覚は社会的・文化的側面を多分に帯びたものである。ここまでは確かに後天的といってよいだろう。
だが特定の社会の中で一番初めに、ある外見を美しいと感じた人間は何なのだろうか。

思いつきでその人を美しいと感じたのだろうか。アドリブで?だとするならばその人物はよほど物好きな人物だと伺える。

話を戻すと、つまるところその人は取り巻く何か、社会や文化から美を感じ取ったのではなかろうか。なるほど、そう考えるとやはりルッキズムは後天的、アポステリオリなものだと言える。

補足:人の顔のパーツが不釣り合いでその人物を不細工だという場合も同様(後天的)である。人は他人の顔を見て顔の対称性というものを認識しその完成形として正確な対称性をもった顔を想起するのだ。つまり他人の顔を学習する必要があるということだ。

結論

後天的なもの。
先に述べたルッキズムの始まりの人物の考えを式にして示した。
性的欲求+社会的・文化的な価値観=美的感覚
こう考えるのであればルッキズムは後天的なものなしには成立しえない。無論、性的欲求が美に直結することは言うまでもない。しかしここではあくまでルッキズムに話を絞って考えているため後天的としてよいと考えた。

Column

福笑い。これも考えてみると随分と人の美的感覚を弄ぶようなものではなかろうか。上に述べたような点で言えば顔の非対称性を楽しむものである。おもしろおかしいと。
なぜおもしろいのか?なにがおかしいのか?
私たちがケラケラとせせら笑うときには脳内にその価値基準が既に刷り込まれていたというわけだ。
あな恐ろしや……


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