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生まれる意思

私は今こうして書くという行為をしている。
これは私の意志のもとに成り立つ行為である。
別に書くことを他者に強制されたわけでもないからだ。
ではもっと根本的な生まれるという意思はどうであろう。私は果たして自身の意思のもとに生まれたのだろうか。
というわけで今回は「生まれる」について今一度よく考えてみたいと思う。

いつ生まれるのか?

かの哲学者ルソーはこのように言った。
「私達はいわば二回この世に生まれる、一回目は存在するために、二回目は生きるために」

このルソーの言葉を踏まえて「生まれる」について考えてみよう。

生まれることに意思はあるのか

生物学および物理学的な科学的見地から生まれるとみなされるのはルソーの言う一回目の生誕なのであろう。
この1回目の生誕(私は受精卵が誕生した時をイメージしている)に意思があったとは非常に考えづらい。脳が十分に発達していないからだ。つまり十分に考えることはできない。よって1回目の誕生は偶発的に(他者の意思はあったとしても少なくとも私の意思ではない)起こったと言ってよいだろう。

2回目の生誕について考えてみよう。私は2回目の生誕は自我の誕生をイメージしている。然れどもこれは厄介な問題である。多くの人は幼いころの記憶が断片的にしかない。よって自我の誕生がいつであったのかを特定することは難しい。
すこし視点を変えてみよう。自我の発生は受動的なのか。つまり自分ではない何らかの存在が自我を発生させるのか。これは「NO」と言える。
誰が「自我をもちなさい」と幼い子に向かって言うのだろうか。仮に言ったとして理解できるはずもないだろう。自我はいつの間にか身についているものなのだ。

受動的ではないことは確かだ。では能動的かと言われるとそれも明確なきっかけが分からないことから断定することは難しい。

となると、受動的でも能動的でもない生まれるとはいったい何だろうか。
もはやそれは人間が解釈できる範疇に無くいわば「自然の事実」なのではないのだろうかという気がしてくる。

結論

Q:生まれることに意思はあるのか

A:あるともないとも言えない。そんな曖昧な答えしか出せない。

上でも述べたが生まれるとは単なる事実に過ぎないのかもしれない。そこに人間の意識が介在する余地はないのかもしれない。

つまり今回の話題は実に不毛な話題だったのかもしれない。

というわけでこれからも不毛な話題の提示に乞うご期待……


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