血液事業の広告をめぐる若干の混乱について、みずからの思考の整理のために

 基本的に、時事問題の論争へ"参戦"することは避けたいのですが(そのことは、必ずしも一般に時事問題についてただ拱手していることを意味しません)、本件に際してはその一部が社会の根底的価値に関わる問題にも繋がっていると思われたこともあり、わたし自身の漠然たる考えの言語化をより一般的な形で試みつつ、もって同種の問題へのおのれの理解を省察しつつ深からしめるために、小文をものしようと考えました。もともとどなたかにご覧いただくことを想定せずに書き始めたものであり、このような覚え書きはそのままお蔵入りにするほうが慎重であったかもしれません。しかし、誤ったないし不十分な部分について気づかずに自己完結してしまうより、批判の可能性にこれを曝してご叱正を賜るほうがよかろうとの思いから、拙文を公開する蛮勇を振るうことにいたしました。これは同時に、センシティヴな問題に対する愚考の至らなさを開示することでもあり、羞恥を伴わずにいられませんが、もしご指摘を頂戴できるならば幸甚であり、またもし何かご笑覧くださった方の思考を動かすきっかけになったならば、それは望外の喜びです。以下において、目下論争の的となっている献血の広告が何を指すかは一応既知であると想定されていますが、ある作品の画像を献血の広告として採用することの問題を論ずることと、その作品そのものを論ずることとをできるかぎり区別しつつ、議論にある程度の一般性をもたらすために、政府機関を除いて敢えて固有名を挙げることはしません。

 準備のために、献血の広告ということは脇に置いて、背景にかかる予備的考察を行います。いま仮に、ある作品に登場する女性が、公式の紹介文で「巨乳」であると指し示されているとしましょう。そして、その人物が着用しているシャツの胸部には「DEKAI」というアルファベットがプリントされているとします。それ自体では何についての文言か不明であるものの(例えば態度についてかもしれない)、「巨乳」という紹介文や、公式による自転車広告の告知サイトに掲載されたイラスト(当該人物の胸部のアップ)における「DEKAI」の用例(それがあるとして)に鑑みると、「DEKAI」はその人物の胸が大きいこととの結びつきが強い言葉であると考えることができます(他の特徴との結びつきを排除するものではありません)。このような公式による紹介や広告のされ方を踏まえると、その作品のその女性の胸が大きいことは、キャラクターの偶有的な身体特徴の一つとして自然に描かれているというよりも、そのキャラクターが有する魅力の一つとして積極的に取り立てられプロモーションされているのではないかと言えそうです。公式との関係は不明かもしれませんが、抱き枕カバーやマウスパッド等のグッズ展開のされ方によってはそれらも傍証となるかもしれません。
 ところで、胸が大きいと指示することがどのような含みを持つのかについては自明ではなく、歴史的・地理的条件によって異なります。例えば、江戸時代には女性の胸に対してあまり性的な注目はなかったと伺っています(より詳しくは安田理央『巨乳の誕生』(太田出版、2017年)などを参照する必要がありそうですが、恥ずかしながら未読です)。現代日本社会においては特に1990年ごろ以降、女性の大きな胸が性的魅力の一つであるとして「巨乳」という言葉とともに捉える見方が一般的になったそうです(同書の説明文による)。現代日本社会の「巨乳」への見方が上述のようなものであるため、いまの日本のある漫画作品のキャラクターについて、出版社が「巨乳」であることを正にその言葉をも用いて押し出しているとすればそれは、(どこまで自覚的かは別として)出版社自身によってそのキャラクターが大きな胸を有することが性的魅力として同定され、かつ、そのことが購買層に訴求するものとして利用されているということを含意すると考えられます。「指が長い」や「足が速い」といった身体特徴(後者は解剖学的な特徴ではありませんが)とは異なり、性的魅力を有するものとして「胸が大きい」という身体特徴が名指しされているということです。もっとも、「指が長い」や「身長が高い/低い」などといった特徴やある種の顔立ちなどが単なる身体特徴ではなく性的魅力として考えられる余地、またある種のファッションや言葉遣いに関しても性的魅力という観点で見られる可能性はあります。しかし、現代日本における「巨乳」という形容と比較すると、これらの性的魅力としての形容は弱いと考えます。このあたりは「性的魅力」とは何かについての曖昧性があるように思います(この覚書では性的魅力という語を無定義のままに使っています)。理論上は「巨乳」という表現の含意を現状において一般的な含意から変えようとして、この表現を別のコンテクストに置き直して敢えて戦略的に用いるという場合もあるかもしれませんが、現在検討している仮設においては当てはまらないと考えます。
 ここで注意しておくべきなのは、何らかの性的魅力と見られうる特徴を伴った画像それ自体をただ提示することと、その画像が有するある特徴を性的魅力の視点で利用して広告することとは別のことであるということです。仮にどこかに掲示されたある女性の画像が、一部の人々によって性的魅力のある画像であると認識されるとしても、それだけでは掲示した側が性的魅力を押し出しているのだということにはならず、そう言い得るためにはさらに他の条件が必要です。そしてさらに、何らかの特徴に性的魅力があるというメッセージを含む画像を広告することは、それ自体は、当該特徴を有する人物について個人としての個性を無視し、ただ見るものリビードを慰めるための、あるいは「目の保養」のための玩弄物とするような性的な視線の存在を肯定的に示すこととは区別されます。この二段階の差異に関して例を挙げながら考えてみましょう。
 第一に、一般の商品の広告の画像にある女性がモデルとして起用されているとします。仮にその女性は胸が大きいという特徴を有しており、当該広告でもそのことが視認できるとしても、その広告の中で胸部が性的魅力として強調され、訴求のために用いられていなければ、その画像は胸が大きいことを性的魅力として利用した広告ではないと言えます。そうではなく、画像自体の印象や、あるいはモデルが個人としてフィーチャーされているならば、モデル自身の魅力を広告する商品イメージと結びつけることによって、その商品を人々に意識してもらうことを意図しているのではないか。ここには解釈の問題が絡むので、個々の事例に関しては性的魅力を利用する意図の有無について必ずしも人々の見解が一致するとは限りませんが、理屈としてはこのように言えるのではないかと考えます。
 第二に、すべすべの腕や足が魅力的であるいうメッセージを発信する女性向けの脱毛サロンの広告であるとか、デコルテラインを美しく見せることや、バストアップ効果を謳う女性用下着の広告などで肌の露出の多い女性モデルが起用されている場合を考えます。一般にファッションと性的魅力との境界は難しい問題となりそうですが、今の議論にとってはその境界を示す必要はありません。仮にその広告が、性的魅力云々にかかわらず自己表現のためのよりよい装いを求める女性だけでなく、性的指向が女性である人に対して自身の性的魅力を増したいと考える女性をも主たる購買層に含むと想定していると仮定しましょう。そこで当該広告の画像が想定しているのは、よりよく自己表現したい、自分自身をより魅力的にしたいと考えている女性が、モデルの女性を一つの理想としながら、それを通して自身を見るような視線であると考えられます。広告を見るシスヘテロ女性が、自身へ向かう特定の視線を想定せずに自身の魅力を高めることを欲する、というのにとどまらない場合はたしかに想定可能です。例えば、その商品によって自らが好感を持っている特定のシスヘテロ男性からの好意的な視線を期待したり、または一般により多くの好意的な注目を浴びたりることを想像したり、さらには誰かから性的視線を向けられることをも欲望する場合さえあるかもしれません。しかしながらそのことは、当該広告が広告の女性の画像に対するシスヘテロ男性からの視線や、特に性的魅力を見出すような視線をはじめから目的としているかどうかとは異なります。ファッショナブルな女性用下着の広告に対してシスヘテロ男性が性的興味を示すとしても、それは広告を見る側の問題であって、広告それ自体の問題ではない、と論ずることは可能です。現実には微妙なケースも含まれうるかもしれませんが、理念的にはこのように分けておくと論点が整理しやすいのではないかと考えます。なお、痩せすぎのモデルの起用や、特定のボディイメージのみの称揚も批判を受けることがありますが、今回はこれらについては扱いません。
 さて、現代日本のある漫画作品の女性キャラクターが、出版社等の公式によって「巨乳」であることを売りとされているようだという先の仮設の議論に戻りましょう。その漫画作品のある巻の表紙にもその女性キャラクターが描かれており、服の描かれ方(皺や影などを含む)もまた胸部が比較的強調されている表現であって、蓋し前述のような当該作品の広告のされ方と対応する訴求手法がとられているとしましょう。作品中の個々の画像については必ずしもおしなべて作品のプロモーションのされ方と並行関係にあるものとは限りませんが、その表紙の画像についてはそのようだと言えるとしましょう。なるほど、特別にデザインされた服を着用するならば、実際に同程度の胸の大きさを有する女性がその表紙の画像と同様のポーズをとれば、類似したシルエットができるかもしれませんが、一般に広く流通した既製服ではやや考えにくい、そのようなケースであると仮定します。また、漫画表現として同ジャンルの作品群のなかにはさらに胸部の強調のされ方が著しい画像があるかもしれないものの、当該画像の表現はやはり女性の大きな胸部を主にシスヘテロ男性の関心をひくために強調する描き方の流れに順うものであるとまでは言い得るとしましょう(この仮定は必須ではありません)。そのような描き方に準じていても、画像のコンテクストによってはもとの画風と同様の訴求を狙っているのではなく別様の効果を生じさせている場合もありえますが、こうしたずらしの跡は明らかでないとします。
 先述の通り、胸部が強調されて描かれていること、それ自体では、それによってどのような視線が集まることを想定しているかは明らかではありません。女性自身の自己表現を推進するためとして、描かれたキャラクターを自身と重ね合せる女性からの視線を想定しているのかもしれませんし、シスヘテロ男性から性的興味をもって注目されることを想定しているのかもしれません。他方で先ほどの仮定では、公式の紹介や販売促進において、おそらくシスヘテロ男性がマジョリティであると思われる作品購買層に対する訴求のために、キャラクターの胸が大きいことを性的魅力として提示している、とされていました。よってここで想定されている視線は、それに限るというわけではないかもしれませんが、シスヘテロ男性からの性的興味を伴った視線であると考えられます。ではその視線は、性愛の視線であって個としての人格を肯定し個人を目的とする視線なのか、あるいは個性を無視し、単なる性欲のはけ口として道具的に扱うような視線なのか。両者は重なっていることもありえて、事例ごとに慎重に吟味される必要があるかもしれませんが、後者の視線の訴求対象としての想定が容易に透けて見えるような画像は、その容易さの程度にもよるかもしれませんが、当該画像を表示する場所がもし公共空間であればその表示は問題となる可能性があります。
 およそある人を人格としてではなくただ性的な客体として扱うということは、その人を対等な個人として扱わないということであり、差別的であると考えます。そのような性的な視線に基づいて現実の特定の人物に実際に差別的な言動をとることは、テクニカルにはまず人格権の侵害ということになるのかもしれません。わたしには法学の素養がないのであまり深入りすることは避けますがが、公共空間においてそのような言動が現実にとられる場合、その先には、対象となる人物に何らかの差別的な貶めを伴う性的イメージを結びつけ、その人物とともに特定の性的イメージが強く喚起される状況を作り出すことにより、その人物が公共空間において表現活動をすることが妨げられてしまうという事態が想定されるように思います。したがって、相手の表現の自由と衝突しこれを侵害することになるため、公共空間における差別の表出について表現の自由は制限されます。あるいはまた、自由かつ独立の主体が公共的な空間において言語交換を行うという土台自体への攻撃でもあるというふうに見ることもできるかもしれません。名誉毀損やヘイトスピーチについても同様に考えることができるかもしれませんが、ここでは措いておきます。このあたりはぜひ諸賢のご批判とご教示を乞いたいと思います。
 いよいよ献血の広告の画像についての考察に移ります。いま、献血の広告として、先ほどからの仮設の議論で扱っている作品の、前述のような巻の表紙が使われていたとしましょう。さらにその広告は、公共交通機関の駅構内に掲示されていたと仮定します。公共交通機関の駅構内は、一般に公共性が高い場所であると考えられるため、画像の背後に女性を差別的に性的な客体とする視線が容易に感じられる場合、当該画像をほぼそのまま広告として掲示することは批判を受けうるだろうと思われます。というのも、当該画像を広告としてエクスキューズなしに転用し積極的に利用するならば、当該画像が有するコンテクストがそのまま無批判に広告に移されることにつながるからです。
 確認しておくべきこととして、作品自体があるコンテクストを有するからといって、何らかの表現にあたりその作品の画像を用いることによって、直ちに当該表現が同じコンテクストを共有しているということにはなりません。例えば、学術的文章において分析のためにある作品の画像が引用されるときや、批判的にそれが取り上げられる際に引用されるときには、作品自体がもつコンテクストを引用先は共有しておらず、いったん切り離されているものと考えられます。実際にその作品の画像がどのような使われ方をしているかが重要であると言えます。いまのケースではどうかというと、血液事業者が積極的にキャラクターの「巨乳」を売りにする出版社と同様の考え方を有しているとまでは言えないとしても、また仮にコラボレーションにおいて、最新のものであるなどの理由で使用しやすい画像をそのまま転用することが慣習的であったとしても、当該画像を採用する時点において、キャラクターの女性の画像がシスヘテロ男性の一部からの差別的かつ性的な視線が想定に含まれたものであることが十分に検討されなかったのではないか、という疑いが生じます。女性と女性の胸部に対する差別的かつ性的なイメージとが結びつけられた画像を広告に使用することは、この結びつきを肯定し、強化することにつながります。なお、献血ルームの中で広告を掲示する場合や、書店等で掲示する場合などついてはどうかということには今回踏み込みません。
 誤解を避けるために注意しておきますと、ここでいう「批判を受けうる」の批判とは、市民の自由かつ透明な議論、クリティックを指します。業務妨害や脅迫、あるいは「突撃」等が容認されないことは言うまでもありません。ただし、女性を性的に玩弄物のように扱う視線に対する怒りの表出については、この文脈において女性がマイノリティの立場に置かれてきた歴史的経緯を踏まえれば、批判にある程度の強い表現が含まれていたとしても、それをことさらにマジョリティの側が例えば言い方が悪いなどと言ってまともに相手にしようとしないという態度は適切ではないと言うことができるかもしれません。この軸でマジョリティである人々のうちの誰かは、別の軸ではマイノリティの側であるかもしれませんが、それぞれは別の問題です。また、批判をうけるのが宜なるかなであったとしても、それは(政府によって)規制されるべきであるということを直ちに意味するわけではありません。いま議論している仮定の画像の広告に関して言えば、確かに女性への性差別的な見方を肯定的に利用しており、女性が公共空間で表現活動を行うことに対する潜在的脅威であるとは言いうるかもしれません。ただし、実際の特定の女性に対する現実の脅威、あるいは現実にはなっていないが明白かつ現在の危険となっているほどの悪質な表現であるとまでは言えないならば、かつ、広告をする者が私人等であるならば(この問題は後述)、表現の自由が保障されなければならない。つまり、ある表現に対して批判こそあれ、強制力をもって差し止めるための権力の行使については極力抑制的でなければならない。危険が現に存在し緊迫していたり、実際に侵害が生じていれば話は別で、攻撃を受けている者をまず守ることが優先されると思いますが、基本的には、批判者その他の市民たちとの、または市民同士による自由で透明な議論を通して、政治的圧力等によらずに、表現者が自主的にどうするかを判断することが望ましい。現実にはad hominemなどもでてきてしまってなかなか難しいこともあるのが悩ましいところです。それでもまだ今は、市民たちの理性と良心とを信じていたいと思っています。なお、例えばマイクロアグレッションとされるものも含め、具体的な差別的言動の脅威の程度についてや、どのような画像の掲示がどのような社会的効果を生ずるかにといったことついては、ぜひ可能な限り実証的な知見に基づいた精緻な議論が必要なことと考えますが、残念ながらここで詳らかに論ずるだけの力がわたしにはありません。
 ここで難しいのは、血液事業の公共性の高さに加えて、日本において血液事業は一社が事実上独占しており、それが厚生労働省所管の認可法人であるということです。平成13年に報告・公表された「特殊法人等の個別事業見直しの考え方」における厚生労働省の意見として、血液事業は今後もその一社が独占的に行うことが適当であるとされています。認可法人は政府機関そのものではありませんが、こうした背景を踏まえると、一般の民間と比較して日本の血液事業者による広告には特に高い公共性が要求されると考えられます。したがって、市民から献血の広告に対して批判の声があるならば、政治家や政府と同程度に強烈な批判を甘受しなければならないかには留保がつきますが、少なくとも市民の批判に対しては真摯に耳を傾ける必要があるでしょう。批判が人々の知るところとなることによって血液事業者や献血に対する市民のイメージが低下したとしても、クリティックに値する言論によってである限り、それはまず事業者の問題であって、批判する市民の問題ではありません(もっとも、献血自体への忌避感が高まり血液製剤の不足が深刻になれば、その影響は市民にもおよんでしまいますが、むしろそれゆえに広告の適切性について市民からの声が重要であると言えます)。また、献血の広告の画像についての批判は、まず事業者が献血の広告として当該画像を採用した判断についての議論であって、画像や作品自体の表現、作者、出版社の広告の仕方などについての議論とは別々にしておかなければなりません。また当然そうした批判は、当該画像で性的魅力として強調されている身体特徴を有する現実の人々に対する攻撃とは(批判する側においてももそれを読む側においても)区別されていなければなりません。このあたりが混同されると何が問題であるのかが見失われるおそれがあり、時には思わぬところに流れ弾が飛んで行ってしまうおそれもあります。
 固有名を避けての議論を試みた結果、様々な仮定を重ねることとなり、かえって分かりにくくなってしまったかもしれません。現在一部で盛んに言われている(すでに過熱状態は去りつつあるかもしれず、また残念ながらクリティックはいえないような攻撃等も散見されるようですが)実際の献血の広告について、改めてわたしの暫定的な意見を明示することは控えておきましょう。このたびの発端やその後様々に拡散した論点について一つ一つフォローできていないためでもありますが、この小文はまずわたし自身の思考の整理のためのものであって、何らかの主張を打ち出すことを第一に意図したものではないのですから。しかるに、ここまでこの乱文にお付き合いいただいた読者のかたがいらっしゃるならば、その方にはわたしがどのような態度を選択しているかはすでに明らかなのではないかと思います。

謝辞:下書き段階の拙文をお読みに貴重なコメントをくださった方へ、本当にありがとうございました。貴台にまずご覧いただくことができてほんとうに良かったと感謝しています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?