感情的苦痛への対処に使いうるスキル
バレント・W・ウォルシュ『自傷行為治療ガイド』(第2版) 松本俊彦・渋谷繭子訳、金剛出版、2018年において自傷の治療のために挙げられているスキルをもとに、感情的苦痛への対処として有益と考えられるスキルをまとめます。自傷の治療に限らず、標記の通り、感情的苦痛への対処法としてある程度一般性を持ちうるのではないかと思います。メインは2番目の呼吸スキルで、同書巻末付録にある様々な呼吸法からの順不同の抜粋要約を含みます(引き写しが多いので怒られるかもしれませんが…)。これはただの覚書であり、レポートの類の体はなしていません。
1. 消極的な置換行動
松本俊彦のいう自傷の「刺激的な置換スキル」におおよそ相当すると思われる。自身の体を切るなどして傷つける代わりに、輪ゴムをはじいて当てたり、氷や保冷剤を少しの間当てたり、あるいは赤いマーカーでしるしをつけたりすることで、自傷を象徴的に表現し、実際の皮膚組織の損傷を避ける。本物の自傷に類似していることが長所でもあり短所でもある。すなわち、自傷の代理をできる一方、実際の自傷のきっかけとなる可能性もある。他のスキルに習熟するまでの一時的な手段とし、長期的には用いないのがよいと思われる。松本俊彦が「刺激的置換スキル」に数えているものとしては、他に紙を破く、大声で叫ぶ、などがある。
2. マインドフル呼吸スキル
ウォルシュ曰く、「もっとも重要となることが多いスキル」。ここでいうマインドフルネスとは、「いまこの瞬間を、しっかりと、穏やかに認識する」あるいは「一度に一つだけのことをすること」という程度の意味で捉えればよい。瞑想の伝統を持つ宗教は少なくないが、それらとは切り離して行うことが可能である。
利点として、比較的簡単に身につけることができ、特別な準備が必要ないということが挙げられる。ただし練習を始めて最初の1〜2分は、効果がないと感じられることだろう。呼吸法が実際に役立つスキルとなるためには、1週間に3回以上、通常10分かそれ以上の時間をかけて練習する必要がある。目標の目安としては15〜20分、1ヶ月も練習すればそれぐらい続けられるようになり、数ヶ月すれば、呼吸スキルはよい効果を発揮すると期待される。
以下、若干の補足説明を加えながら、いくつかの呼吸法を紹介する。いずれも、静かで邪魔されない場所に坐って行うとよい。
2.0.「吸って……吐いて」
もっとも単純な呼吸法で、呼吸法への導入として適している。ただ、吸気時に「吸って」と心の中で言い、呼気時に「吐いて」と心の中で言えばよい。単純なのが長所であり、単純すぎて注意がそれやすいのが短所である。
2.1. 「私はここにいる……私は落ち着いている」
息を吸いながら「私はここにいる」と心の中で言い、息を吐きながら「私は落ち着いている」と心の中で言う。「私はここにいる」とは、「私は物事を決めつけずに(自分自身や他者についての善悪の判断、批判を止めて)いまこの瞬間、ここにいる(過去を悔やんだり未来の心配をしたりせず、現在のこの瞬間にただ存在する)」という意味である。
2.2.「1から10まで吐く」
まず無心で吸気し、それから呼気の際に「1」と心の中で数える。次にまた無心で吸気し、呼気の際に「2」と心の中で数える。以下同様に、「10」まで数え、その次は「1」に戻る。途中で忘れた場合は「1」から再開する。単純で覚えやすく、そこそこの複雑性がある点で優れている。
2.3.「1から10まで息を吸って吐く」
「1」で息を吸い、「2」で吐き、「3」で吸い、「4」で吐き、…(交互に続ける)…、「10」で吐き、次に逆順で、すなわち「9」で息を吸い、「8」で吐き、「7」で吸い、…(交互に続ける)…、「1」で息を吸い、「2」で吐き、…(以下、繰り返す)、という呼吸法。上り下りのリズムが癒しになりうる。これも集中を要する程度には複雑だが、リラックスできる程度には単純であるところが優れている。
2.4.「……を手放す」
息を吸いながら「心をこめて息を吸って」(元の表現:マインドフルに息を吸って)と心の中で言う。次に息を吐きながら「◯◯を手放して」と心の中で言う。◯◯には、不安、緊張、怒り、完璧主義など、苦痛の原因となっている感情を入れる。息を吐きながら、その感情が身体から抜け出してリラックスしているところを想像する。ただし、感情を追い出そうとするのではなく、通り過ぎていくのを見守るような気持ちで。一つの感情を繰り返してもいいし、複数の感情を順次吐き出していってもよい。
2.5. 「深い呼吸」
意識的にゆっくり深呼吸を行う。すなわち、呼吸数を減らし、一回換気量を増やす。練習しながら、自分にとって心地よいリズムを見つけるとよい。ただし、過換気に注意。息切れ等の不快感が現れた場合は、いつもの浅い呼吸に戻ること。
2.6. 「竹の呼吸」
図がないとわかりにくいが、自分なりに説明を試みよう。まず、2回に分けて深く大きく息を吸い込む。次に、「2回短く小さく息を吐く → 2回短く小さく息を吸う」を4セット繰り返す。そして最後に、4回に分けて深く大きく息を吐く。関田 (1985)による、竹の節にちなんだ命名とのこと。
2.7. 「息を吸って、身体を落ち着けて、息を吐いて、笑って」
書いてあるままのことを繰り返し行う。
2.8. 「……を育む」
すでに述べた2.4. 「……を手放す」に似た呼吸法。しかしこちらの場合は、息を吐きながら「◯◯を育む」と言う。例えば、穏やかさ、落ち着きなど。
2.9. 「あるがままに、手放して」
息を吸いながら「◯◯ (怒り、不安などの感情)が見える」→ 息を吐きながら「あるがままに」→ 息を吸いながら「◯◯ (さっきと同じもの)が見える」→ 息を吐きながら「手放して」とする呼吸法。
2.10. 「波の呼吸」
息を吸いながら、波が浜に穏やかに打ち寄せるところを想像する。息を吐きながら、波がゆっくりと退いていくところを想像する。波の音を聞いたり想像したりしながら行うのもよいだろう。
2.11. 「喜ばしい言葉を用いた呼吸」
自分の好きな言葉を選び、息を吐くたびにその言葉を繰り返す。おそらく攻撃的でない言葉のほうがよい。
2.12. 「指で軽く体を叩きながらの呼吸」
例えば、吸気時に左手の指で左足を軽く叩き、呼気時に右手の指で右足を軽く叩くなど、触覚と呼吸を組み合わせた方法。自分の好きなリズムを見つけるとよい。
2.13. 「腕を上げて呼吸する」
腰掛けて、手はお膝。息を吸いながら両腕をゆっくり肩のあたりまで挙げ、息を吐きながら腕を下ろす。
2.14. 「ボディスキャン呼吸」
座った状態で、身体を支えている部分(臀部?背骨?)にゆっくり意識を向ける。次に、足が支えられている部分に意識を向ける。数分後、呼吸とともに上下する腹部の動きを意識する。数分後、呼吸に伴う胸部の上下を意識する。数分後、鼻の穴に意識を向け、入る空気の方が冷たくて出る空気の方が暖かいことを認識する。数分後、全身を意識し、身体のまわりを膜が覆っていると想像する。自分が単細胞のアメーバであると想像する。数分間意識を集中したら終了。
2.15. 「呼吸のあいだの隙間」
まず、深呼吸の自分なりの心地よいリズムを見つける。そして、息の吐き終わりと吸い始めとの間の短い休止に意識を集中する。
2.16. 「頭を空にする呼吸」
呼吸法に習熟した人のために。呼吸に意識を向けて、全く何も考えないようにする。
2.17. 「これもまた過ぎ去る」
息を吸いながら「これもまた」、息を吐きながら「過ぎ去る」。
2.18. 「ただ呼吸する」
ただ呼吸する。
3. 視覚化テクニック
視覚優位な人の場合はこちらが有用かもしれない。自分自身の経験から、もっとも落ち着く場所や情景を想起する。単に記憶の中で思い浮かべてもよいが、より鮮明に想起できるように、紙に書き出したり、録音を使ったりしてもよい。例えば、馬と一緒にいることがもっともリラックスできる環境である人なら、大好きな馬の手入れをしているところ、馬を眺めているところ、馬小屋の匂い、毛づくろいの感覚、馬が尻尾を振る音、などを想像する。呼吸法と組み合わせて行うこともできる。
4. 身体的エクササイズ
散歩、ランニング、水泳などのエクササイズを行う。もしそれで落ち着くのであれば、掃除機をかける、などの身体的活動でもよい。ただし、ボクシングなど攻撃的なものは避ける。また、過度な身体的エクササイズは身体破壊的であるので、標準的な範囲内で行うこと。
5. 書くこと
たとえば、日々の出来事の日記。あるいは、自分が経験している不快な感情の言語化を試みる。不快な感情のまま行動するのではなく、言語によって表現できるようになるということは重要と考える。松本俊彦によれば、できるだけ丁寧な文字、きちんとした文章がよく、なぐり書きや罵詈雑言になりそうならば、深呼吸などでまずある程度落ち着いてから書くことに移ったほうがよいという。
6. 芸術的表現
ここでいう芸術的表現に高度な技術は必要なく、意欲があれば十分である。絵を描いたり、粘土をこねたりなど、いろいろ試してみるとよいだろう。
7. 音楽を演奏する・聴く
自ら演奏するほうが、ただ聴くよりも効果がある。ただし、完璧主義を課して、うまく弾けないときにフラストレーションを溜めてしまわないように。聴く場合は、好きな音楽の中でも、癒しの効果を感じられるものがよい(ここでは、攻撃的、暴力的な音楽や、感傷的、悲愴的な音楽は好ましくないとされている。カタルシスという考え方はあるけれども)。ただし、「ながら聴き」はせず、メロディーや楽器、リズムなどしっかり集中して聴くこと。
8. 他者とのコミュニケーション
自分をサポートしてくれる友人やパートナーたちとのコミュケーションを持つことは大きな助けになる。一方で自分を嘲ったり罵ったりしてくる他者とのそれは逆効果であるので注意されたい。自傷関連のインターネット上のコミュニティグループで、自傷行為の激しさを互いに競い合うようなところも避けるべし。
9. 気紛らわしのテクニック
猫を撫でる、犬の毛づくろいをする、(オオサンショウウオのぬいぐるみを撫でる)、ゲームをする、掃除をする、お菓子を焼く、本を読む、編み物をする、数学をやる、ギリシャ語を読む、Pythonの勉強をする、など、自身なりの感情的苦痛から関心を逸らす方法を用いる。これらは複数用意しておくとよい。ただし、こうした気紛らわしのテクニックは、急場凌ぎのためのテクニックとされ、優先順位は高くない。根本的な問題解決の方法ではなく、自分を癒したり、感情的苦痛や空虚感から解放されたりといった効果はあまり期待できないという(オオサンショウウオのぬいぐるみを撫でることは癒しになる気もするのだが…?)。こうした気紛らわしのテクニックは、すでに各自がそれなりのやり方で実践しているものと思われる。それらに加えて、呼吸法などのスキルを身につけることがすすめられる。
結語
上記のようなスキルのなかから、自分にとって魅力的かつ効果的な方法を選んで、練習してみるとよいかもしれません。消極的置換スキルにはできるだけ頼らないように。特定のスキルを練習すると決めたら、スケジュールを立ててモニターしたり、他者の援助を得て練習を促進するのもよいでしょう。
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