雑記:尻尾と幻滅、または少しずつのがっかりについて、北山修たちとともに

ἰὼ γενεαὶ βροτῶν,
ὡς ὑμᾶς ἴσα καὶ τὸ μηδὲν ζώσας ἐναριθμῶ.
τίς γάρ, τίς ἀνὴρ πλέον
τᾶς εὐδαιμονίας φέρει
ἢ τοσοῦτον ὅσον δοκεῖν
καὶ δόξαντ᾽ ἀποκλῖναι;
おお、めぐりうつる人の世よ、おまえたちが生きるその生はなんと物のかずにも入らぬ。似て非なる仕合せを得て、得たと思うと身を滅ぼす——だれが、いったいだれが、それにまさる仕合せを手に入れるのか。
(Soph. OT ll 1186-1192. ソポクレース「オイディプース王」岡道男訳、1186-1192行、『ギリシア悲劇全集 3』岩波書店、1990年、pp 78-79)

尻尾を出す、馬脚を現す、化けの皮が剥がれる、襤褸が出る、といった言葉が怖かった。いまでも怖いかもしれない。防衛をうまく利用しながら、社会に適合できるよう、現実原則に即して二次的心理過程の自我を使って、あるいはウィニコットの用語に従えば偽の自己 false self(これにpejorativeな含みはない)を使って自己を二重化し、内にある不適応部分の自己を隠蔽していた、はずだった。それなのにこの隔離機能が不全となって、一次的心理過程の、または真の自己 true self(これにeulogisticな含みはない)が露呈してしまう。あるいは自己に関して何を見せて何を見せないかの統御に失敗して、見られる予定のなかった自己の部分が他者に見られてしまう。このようなとき、羞恥に耐えかねて退却したくなってしまい、もうその場にはいられないように感ずる。そんな経験はないだろうか。
 いま述べたのは受動的な露呈の場合であるが、あるいは能動的な開示へのためらいもあったかもしれない。自身のことをよりよく知ってもらうために、ひいてはお互いをさらによく理解し合うために、一方が他方へ何かを打ち明ける。漏洩や拒絶の不安に抗して思い切って内奥を打ち明けることによって、秘密が二人のあいだで共有され、孤独もそれだけ和らぐことになる。このとき、話す者は聞く者に対して、この人ならば秘密を受け止めてくれるだろう、という信頼を贈っていると言える。もし一方が対等な関係を深化させたいと思っているならば、相手もまたこちらを信頼していくばくかの相応の秘密を共有させてくれるのではないかという返報性の期待とともに、あるいはそのことをも信頼して自身について打ち明けるかもしれない。もし相手が受け止めこそすれ、相手自身の秘密を共有させない、または孤独な重荷を抱え込んで離さない、信頼を贈り返してくれないとき、それが相手の不誠実か怯懦か何らかの病理の発現か、いずれにしろそのようなとき、両者のお互いに関しての知は非対称に傾くこととなり、対等な二人として関係を深化させるという望みは得られないままとなる。非対称な関係へと変形していくことを当事者が望まないのであれば、二人はわかり合えずに離別する結果となるかもしれない。

 露呈されたまたは開示した内容について、見る側が受け入れず、拒絶的ないし嘲笑的に扱うような場合、拒否的な視線を浴びることによる幻滅と羞恥が避けられぬものとなる。ここでいう幻滅とは、「見る側の幻滅を知った見られた側の幻滅」(北山修「幻滅と脱錯覚」『幻滅論』みすず書房、2001年、p. 156)とでもいうべき外傷的なものである。なお意図せざる露出の場合、見る側は受け入れるか受け入れないかという選択の手前に見て見ぬ振りをするという選択も可能である。その場合は露出されたものは取り繕われて事無きを得るということもあるが、いまは措く。
 いわゆる鶴女房または鶴の恩返しの異類婚姻譚では、男性主人公が「見るなの禁止」を破った結果、嫁に迎えた女性が実は動物であったと見て知ることとなり、正体を見られた動物は男性主人公のもとを去っていく。先に引いた北山修は同書の「恥の取り扱いをめぐって」のなかで、『古事記』の伊耶那岐・伊耶那美神話と豐玉毘賣神話を引用している(ibid., pp 152-154)。ここにも『古事記』から両者の一部を引いてみよう(以下の引用は青空文庫による)。

……かれ左の御髻に刺させる湯津爪櫛の男柱一箇取り闕きて、一つ火燭して入り見たまふ時に、蛆たかれころろぎて……并はせて八くさの雷神成り居りき。ここに伊耶那岐の命、見畏みて逃げ還りたまふ時に、その妹伊耶那美の命、「吾に辱見せつ」と言ひて、すなはち黄泉醜女を遣して追はしめき。
……ここに産みます時にあたりて、その日子ぢに白して言はく、「およそ他し國の人は、産む時になりては、本つ國の形になりて生むなり。かれ、妾も今本の身になりて産まむとす。願はくは妾をな見たまひそ」とまをしたまひき。ここにその言を奇しと思ほして、そのまさに産みますを伺見(かきまみ)たまへば、八尋鰐になりて、匍匐(は)ひもこよひき。すなはち見驚き畏みて、遁げ退きたまひき。ここに豐玉毘賣の命、その伺見たまひし事を知りて、うら恥しとおもほして、その御子を生み置きて白さく、「妾、恆は海道を通して、通はむと思ひき。然れども吾が形を伺見たまひしが、いと怍(はづか)しきこと」とまをして、すなはち海坂を塞きて、返り入りたまひき。 

伊耶那岐・伊耶那美神話では、伊耶那美に蛆がたかり雷神が化成しているのを伊耶那岐が覗き見て、「見畏みて逃げ」る。これに対して伊耶那美は「吾に辱見せつ」と怒り、黄泉醜女を差し向け、雷神と千五百の黄泉軍にも追わせ、最後には自ら追ってくる。豊玉姫神話では、出産に際して本国の姿に戻っているのを見ないようにという禁を夫の火遠理が破り、大きなワニとなって這い回っているのを覗き見て、「見驚き畏みて、遁げ退」く。豐玉毘賣は「いと怍しきこと」と言い、子(鵜葺草葺不合)を残して海へ帰る。北山修が言うように、前者の神話では覗かれた女性主人公は相手に抗議し覗き手を攻撃しており、後者の神話ではただ退去しているという違いを指摘することはできるが、いずれにおいても露出と拒否による急激な幻滅と羞恥の発生を見てとることができる。

 いま述べた幻滅を少し理論的に言うならば、「同じものについて理想化された幻想とくいちがうもう一つの幻想と出会う」こと、または「幻想の内部に固有の悪いもの、醜いもの、怖いもの、おぞましいものを発見」することによる幻滅であると言うことができるだろう。これを北山は「幻滅1」と命名している(北山 op. cit., pp 113-114)。先ほどの二つの神話では出産の場面が、また鶴女房では傷つきながら布を織る場面(胸の羽根を抜き取り、胸から出血している姿で描かれることがあり、北山によればこれは授乳を連想させる)が幻滅の舞台となっているが、これらの原型は乳児の理想化された母親像の幻滅にまで遡ることができるという。良い乳房と悪い乳房とに部分対象 part object として分裂していた二つの乳房、あるいは腕や顔が、母親という統合された全体的対象 whole objectに属するものであるということを認識する。このとき良い対象 good object への幻滅が生じている(付言するなら、悪い対象 bad object もまた幻滅している)。同時にこの裏返しとして、良い対象が自分の望みを全て叶えてくれる、全て自分の思い通りになるという自己の万能感(馬場禮子『改訂 精神分析的人格理論の基礎』岩崎学術出版社、2016年、p. 146)の幻滅も生じていると言えるかもしれない。
 この統合により、白か黒かに分裂した感情体験はより複雑かつ豊富な情緒へ発達し(ibid., p.148)、"ōdī et amō"(Catullus 85)のごとく、好きなところも嫌いなところもあるというような複雑な割り切れない思いを、幻滅の痛みにつづく、罪悪感や迷いといった感情(抑うつ感情 depressive feeling)を抱くようになる。ここから償いや感謝といった成熟への道筋も開かれうるのであるが、鶴女房や前述の二つの神話のように、急激な幻滅は外傷的で、適応の再生に至らず悲劇的な破局に至ってしまうこともある。反対に、ことさらな反応をせず暴かず、さりげなく、論うことなく、過ぎたる批判、評価、解釈によって裁断せず、共感と謙虚な受容、「『理解すること』に徹する対応」(北山 op. cit., p. 161)を行うならば、外傷的な羞恥反応を惹起してしまうことをいくばくかは回避しうるかもしれない。恥部と思われていたところも含めて受容できる包容力は一つの理想ではあるが、現実には難しいこともあるだろう。
 人と人との関係が深まるにつれて、あるいは精神療法等において、内奥を隠してきた蓋が意図的にであれ不意にであれ取り去られる場合もありうる。敢えて人の内面に踏み入るときも、必要以上に深層まで切開を加えることには抑制的であるべきなのだろう。偽の自己は防衛であり隠蔽物だからこれを取り去って真の自己を明らかにするのがよい、というごときは不当な単純化であり、危険ですらある。特に、精神病的な混乱を内に抱えながらも二次的心理過程によって発病を抑えているようなケースで、世話役であった蓋を奪い去るとどうなるか。「自己洞察が深まれば死ぬことになるかもしれないのだよ」とは精神科医・石川清の言である(熊倉伸宏『面接法』新興医学出版社、2003年、p. 86)「真の自己」true self という言い方にeulogisticな含みはないと冒頭で注意していたことを思い出されたい。
 ところで、「『本当の自分』は環境の保証によって達成されるはずの『可能性』であり、誕生直後の『抱える環境』のなかでは『ある』のであるが、環境が失敗したあとからは特別な『達成』なのである」(北山 op. cit., pp 221-222)と北山は述べている。わたしとしてはむしろ、発達を遂げた後にはこの全き達成はついにあり得ないし、また全き達成を目指すべきでもないと考える。なぜなら、北山は「『水を得た魚』の魚の体験の場合に似」ると言うが(ibid. p. 220)、言語以前の嬰児についていえば、バタイユが動物について書いている表現を借りるなら、「世界のなかに、水の中に水があるような」 «dans le monde comme de l’eau dans l’eau» (Bataille G. Théorie de la religion, Paris, 1973, p. 25)、とでも言うべき全能状態、自他の区別以前であって、ゆえに自我もないような状態がそれなのである。それは「ふるさと」ではあって、遡及的に自覚されるべきものではあるかもしれないが、これを解放することがわたしたちのなすべきことというわけではあるまい。「なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから」(坂口安吾「文学のふるさと」)。偽の自己はぜひ必要である。真の自己とは疎隔がありつつも繋がっている適応的部分もまた自我にとって欠かすことはできない。一方で確かに、水の中の水ではないが水の中の魚であるような部分的な達成、依存や退行もある程度許されるような環境の獲得もまた望まれてよいし、獲得されるべきであろう。外部にほどほどに依存できる良いものがあること、その存在を信頼できること。幻滅の危険性を受け入れながらも、わたしたちはその頼れるめったにない対象を「ありがたい」と感ずるのである(北山 op. cit., pp 236-237)。

 理想化された幻想と相矛盾する像の衝突と全体対象の獲得に伴って生ずるのが「幻滅1」であった。これに対して、理想化されたものの不在という外的現実への直面を契機として、現実検討の影響によって生ずる幻滅が「幻滅2」である。母子分離における母親の不在や、対象喪失の体験などがこれにあたる。幻想対幻想として内的に生ずる幻滅1と比較すると、幻想対現実として外的に生ずる幻滅2は、やや分化した二者関係における幻滅だと考えられる。さらに、排他的二者関係を外から断つ第三項の侵入によって一体化の幻想が砕かれるというのが「幻滅3」であるが、幻滅3においてはすでにエディプス・コンプレックス理論のごとく、三者関係の成立への方向性が示されている(この第三項が弱いところでは二者間の一体化幻想が維持されやすい)。エディプス期以前の対象関係は二者関係であって(馬場 op. cit., p.129)、幻滅1も幻滅2も前エディプス期をモデルとする幻滅だと言えるだろう。ソポクレース『オイディプース王』132行で"ἐγὼ φανῶ"(わたしが明らかにしよう) とラーイオス殺害の犯人探しを宣言したオイディプースが、かえって自分の正体を明らかにしてしまい自らの目を抉ることになったあの幻滅は内的な幻滅1に属すると思われるので、注意されたい。
 幻滅2の危機において落差の緩衝となりうるものとしては、移行対象ないし中間領域の充実を挙げることができる。ウィニコットがいう移行対象とは、嬰児が手に持ったり口のあたりに持って行ったりする特定のタオル、ガーゼ、ぬいぐるみといったものたちである。オオサンショウウオのぬいぐるみが移行対象であるかどうかは措いておこう。

依存している親から分かれるときに,内的な表象をしっかり持っていられるようになってくると,内的表象を持っているだけで安心していられるようになる。しかし内的表象もまだ確立されていない時期に,外的な対象である母親というのもいなくなってしまうと,1人になってしまいます。その時に中と外との中間くらいのところにあるものが助けになります。ウィニコットはこの中間領域にあるものを移行対象と呼んでいます。物ではあるのだけれど,言ってみればお母さんの代理物なのです。(馬場 op. cit., p.160)

このような内外を架橋する対象があると、安定して漸進的な分離を行いやすくなる。移行対象を通じて、理想の対象が現前していないときにも存在が獲得されることとなる。その存在はいわば錯覚ではあるが、幻想と幻滅よりは現実的でマイルドな錯覚と脱錯覚とを反復する中間領域は、遊びや文化的活動に発展する可能性へと開かれている(北山 op. cit., p. 119)。ラカンが言及していたように、フロイトの孫によるfort-daの糸巻き遊びは、母親の不在と存在とをfortとdaとの遊戯に変換して再演することで母親の不在に耐える術であるとともに、象徴界への主体の移動、言語構造への結合の契機だと考えることができる。ここでは糸巻きは子供にとっての母親の代理物として移行対象となっている。

 幻滅は生きている限り、幼少時代に限らずいつであれ経験しうるものである。何かが幻にすぎなかったことを悟ることは経験しうるというより、むしろ不可避であり、生きるために必要でさえである。ナルキッソスは水面に映る自己の像に執着して死に、マッチ売りの少女は点火したマッチの炎とともに現れる幻想から醒めることなく凍死する。これらは幻滅しないために起きた現実における破滅の例である(ibid., p. 124)。これまでの議論からも示唆されるように、子供の発達も幻滅なしにはなされない。嬰児のすべての望みが叶えつづけられたとしたらどうなるだろうか。すなわち問題は、非現実的幻想と急激で外傷的な幻滅とをできるだけ避けながら、より現実的な錯覚と、緩徐で非外傷的な脱錯覚 disillusionment という課題をいかにこなしていくかということである。
 対象関係のつながりが完全に断ち切れてしまうことなく、なんとか保ちつづけて、次のほどほどの錯覚の可能性へ開いておくこと。クライン学派のいう抑うつ体勢 depressive position にあっても、現実への関心をすっかり失ってしまうのではなく、現実の希望を生き残らせ、対象への基本的な信頼を維持しながら適応を模索すること。乳児に対しては「自然に育児に段階的に失敗する」親が、心理療法のクライアントに対しては「幻滅の相手役としてその受け皿にな」り「幻滅に応じ現実の方向を指し示す」セラピストがつねに関係を抱え、包容しながら、十分な時間をかけてかれらを「少しずつがっかりさせる」(伊藤克彦)ことが重要な仕事となるのだろう。この少しずつのがっかりは、たとえば師弟関係についても言いうる。精神科医・成田善弘が精神科に入局したとき、伊藤克彦を師とすると心に決めたが、「師はそこに存在するだけ」であり、「少しずつがっかりした」という(成田善弘『新訂増補 精神療法の第一歩』金剛出版、2007年、pp 26-27)。しかし、「がっかりが少しずつだったおかげでがっかりさせられながら自分で考えることができるようになった」、もし幻滅が急激であったならば、ただ存在する師のありがたみに気づく前に師のもとを去ってしまっていただろう、と成田は述懐している(ibid.)。ここでの深入りは避けるが、恋愛のような二者関係でも一部当てはまるところがあるだろうか。見る側においては、受け止めること、見られる側にとっては、願わくばそれが少しずつの、かつほどほどの開示であることを。あの相手ならば自分のす̀べ̀て̀を̀受け入れてくれるのではないかというのは一次ナルシシズム的であって、自他の区別が消失してしまっている。その先にあるのはおそらく外傷的な幻滅1である。
 精神療法においてもまた「少しずつのがっかり」を指摘することができる。患者が治療者のもとを訪れるとき、患者が捉える病気のイメージ、自己の症状についての患者なりの説、治療者に求める治療の期待は、治療者が考えるものとは多くの場合において齟齬があるだろう。しかし、治療者が一刀両断するならば患者は失望してしまう。また、治療者が初期に抱く印象や見立ては、面接の進行にともなって修正されていくだろう。患者に幻想的な期待を抱かせたままにしておくことは不適当であるが、その時々の考えを明瞭化しながら、患者と治療者との説をお互いに少しずつ修正しあって深化させていくことが望ましいと思われる。脱錯覚あるいは少しずつのがっかりを通して、両者の説が重なり合ったとき、精神療法はその役目を半ば終えている、と成田善弘は述べている。「精神療法とは、病気の説をめぐって治療者と患者が合意を求めてする交渉の過程である」(ibid., p. 89)。
 また、患者が治療者を全能のように、または自己の一部のようにみなして治療を要求するようなケースにおいて、治療者があくまで患者の役に立とうとしながらも一人の人間として限界を告白するとき、お互いの他者性があらわになり、患者と治療者とがそれぞれ責任や限界をもった二人の当事者として出会いなおすことになる。これが精神療法のターニング・ポイントとなることもあるという(成田善弘『新版 精神療法家の仕事』金剛出版、2014年、pp 93-94)。ここでも幻滅が生じていることが見て取れる。しかし、もしこの幻滅が外傷的なものとなったならば、両者の病理のぶつかり合いや治療の不完全なままの中断という結果につながるおそれも十分に考えうる。患者の内密な世界を引き出しておいてそこに配慮のないような場合、患者は羞恥を覚えて治療関係から退去してしまうかもしれない。この恥を単に「抵抗」として見ることがはたして適当かどうか。
 いま述べてきたのは、師の側、治療者の側からの脱錯覚であるが、弟子のような立場からは何か言えるだろうか。熊倉伸宏はある小冊子のなかで次のように述べている。「師を求める人にしか師は現れない。……私が気づかないと彼らは師ではなかった」(熊倉伸宏『面接法 2』新興医学出版社、2012年、p. 29)。人が他者を師と仰ぐとき、そこには錯覚が含まれているはずである。他者理解のストーリーは、つねに無限の残余を従えているからである(ibid., p. 78)。しかし幻想よりはいくらか現実的な錯覚の効用というものもあるのだろう。「師が学ぶ者を育てるだけではない。師は学ぶ人が見い出し、作り上げ、育てるものなのだ」(ibid., p. 29)。師にあるいは自分自身にがっかりすることはおそらく避けられないけれども、少しずつのがっかりを経ながら、両者はともに学び育ち、またお互いをもっと深く理解し合っていくことになるのであろう。

 錯覚と脱錯覚の反復と、その反復を可能にする基本的信頼、そしていつしか儚く消えゆくであろう移ろう対象を、かなしみ(愛しみ/哀しみ)とともにそれでも抱えておくこと。社会のなかで人間の形を保って活動している万能ではない生きものたちは、みな形の異なる尻尾を持っている。文化や言葉を身に纏うことによってその尻尾を守り、自分自身を抱え、そしてまた他者をも抱える術を身につけていこうとしているのだと言えるかもしれない。ある意味で社会は錯覚の産物である。それは必要な錯覚であり、破局に至るような幻滅は避けられなければならない。錯覚がなければ関係は成立せず、また錯覚に脱錯覚が生じないままであれば関係の発展もないことになるだろう。なんらかの理想化された幻想を引き受けるものではあっても、完全な幻ではないと信じること。来るべき脱錯覚を経て、別の錯覚へ。望まくはより深い相互理解に基づいたよりよい錯覚のために、開かれた(非排他的な)つながりのもとで、困難な交流をそれでも求めて、それぞれの尻尾の違いを超えて、時にはちょっと尻尾を出しながらも、あるいは少しずつがっかりしながらも、わたしたちは万能ではありえない生きものとして、なお勇気をもって、互いに信頼という贈り物を贈りつつ可能性を信じて対話を重ねている、ということなのか。そこまでを射程に収めて論ずるためにはまた稿を改める必要があるだろう。

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