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みえるとみえなくなる

このあいだ、伴走仲間(晴眼者のガイド)から、面白いから読んで見るといいよと:
「視界良好<1><2>」河野泰弘著
視界良好―先天性全盲の私が生活している世界
視界良好〈2〉視覚障害の状態を生きる
を紹介されました。

先天性全盲の著者が「捉えている」モノは、Vision(視覚)で環境認識することが当たり前になっている晴眼者のモノとかなり異なること、触覚や聴覚というモーダルから感じる入力で頭の中により複合的な認識が形作られているという著者の表現を読むと、視覚に頼っている自分の脳内再生イメージが、実にペラペラなことに気付かされます。

例えばドラム缶を書いてご覧と言われたら、自分だったら楕円に縦線2本書いて下の線を円弧で結び、側面のリブを入れたりキャップを描いたり、思い出しながら燃料口を書いて、「こんなんですかねー」って感じ。

でも先天性全盲の方は「平面に投射した2次元の図面」という概念がそもそも存在しないので、触ったことのある経験から、まん丸の頂面、弧を描く側面という形状情報に加え、ひんやり、ざらざらとしたサビの手触り、空洞の金属の筒ならではの音、もしかしたらドラム缶を触った時の情景(気温や風の音、匂い、一緒にいた人の笑い声など)を思い出すかもしれない。
単純な二次元の絵か、多様な情報が融合したイキイキとした脳内の情景か、そのドラム缶を表現する、という行動が何のためかによって、どちらの方法が優れているかは異なりますが、少なくとも晴眼者の表現の方がなんだか薄っぺらいですよね。

この本を読みながら、晴眼者と特に先天性全盲のかたが「モノを捉える」ということにこれほどの違いがあるのと同じように、本当は同じ晴眼者どうしだって発達も経験も異なるから、同じ物体を見ても実は異なった見方、理解をしているはずだろうなぁと改めて気づきました。でも「異なっている」ということを理解することがなんと難しいことか。

ひとは「みえるとみえなくなる」。

人は一人一人違う。「晴眼者」か「視覚障害者」のたった2種類じゃない。「健聴者」と「ろう者」のたった2種類じゃない。そんな当たり前のことをこの本は教えてくれました。そういえばこの本を紹介してくれた私の伴走仲間(晴眼者)は、一緒に走っていると、どんな視力なんだ!?というほど、草むらの虫、道に落ちている変わった木の実、雑草に咲く小さな小さな花に気づくんです。間違いなく私がみている粗いモザイク状の世界より、うんと彩り溢れる世界を見ているんだろう。

もっと見ようとすることも大事だけれど、色々な人の見方をミックスできたなら。それが仲間、チームでいるという強みなんだろうな。

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