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いま目の前にある現実(リアル)に向き合って生きる事の大切さ

数年前から、子供のなりたい職業ランキングでYoutuberが上位にランクインしているという。SNSやメディアでは「時代が変わった」「Youtuberになりたいだなんて」と、やや悲観的に捉えられることが多い。

ぼくはそんなことは大人の思い込みで、こんなランキングは何の指標にもならないと思っている。なぜなら、子供はリアルに向き合って生きるからだ。

ぼくが子供の頃も、学校の作文やアルバムに「なりたい職業」を書かなければいけないシーンが何回かあった。ぼくはサッカー教室に行くのが嫌で嫌で仕方なかったが、そこには毎回「サッカー選手」と回答していた。本当はゲーム開発者と書きたかった。

理由はさまざまだ。「友達に見られた時にバカにされなくて済む」「無難な回答だと親が安心する」「そもそも真面目に考えるのがメンドウ臭い」など、目の前の現実<リアル>が積み重なった結果、サッカー選手という本意とは違う回答を記載していた。仲のいい友達もこういう類のアンケートに対して、似たような冷めた温度感で回答していた。

時代が変わったとはいえ、子供のメンタリティまではそう簡単に変わっていないだろう。「なりたい職業ランキング」にYoutuberと書く子供は、おそらく本心でそう書いていない。何となくその場の雰囲気やノリで適当に書いただけだろう。

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思えば子供の頃は、今よりも現実<リアル>に向き合って生きていた気がする。ぼくは足が遅く、運動神経もよくなかった。だからスポーツ選手になるのはもちろん、運動会で活躍したいという小さな目標すら抱いたことがない。かといって運動音痴だけが発することのできる「体育ヤル気ゼロオーラ」を発してしまうとクラスの人気者から責められるので、年に一度の運動会では、地味だけどそこそこ頑張った感の出る「障害物競走」や、圧倒的不人気な「長距離走」の選手にあえて立候補して適度にヤル気のあるフリをしてやり過ごすのが毎年の目標だった。

大勢の前で話すのも苦手だった。初対面の人も苦手。これは今でも少し苦手だな。だからテレビに出て芸能人になりたいとか、鉄板トークでみんなを楽しませたいと思ったことがない。

そんなぼくにできることと言えば、ノートの端くれに超難解な迷路を黙々と作成したり、オセロと将棋を組み合わせた謎のボードゲームを発明したり、授業中に遠い席の友達と会話できる手話を開発することだった。50メートルを9秒台で走れるやつや、面白い一発ギャグを教室の前で披露できるやつに比べると天と地ほどの人気の差はあるが、それでも一定数喜んでくれる友達はいた。

子供の頃はそういった数々の現実<リアル>と直面し、自分のできることを選択していた。誰に教わるでもなく、周りのみんなも自然とその生き方を選択していた。

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違和感。大人になってから(正確には起業してから)猛烈な違和感を感じるようになった。周りの大人たちが現実<リアル>を直視できなくなっている。

やれ起業家になりたいだの、インフルエンサーになりたいだの、ブログで稼ぎたいだの、やりたいことで生きるだの...夢に似た虚像で街が溢れかえっている。

特に昨今の起業家ブームには辟易している。それを囃し立てるメディアにもだ。

スマホのやりすぎで、ワンクリックで物事をインストールすれば何でも達成できると思い込んでいる。

ぼくは基本的に、人を束ねてモチベーションに火を付けるリーダー役の経験がない人はオンラインサロンで成功できないし、作文に情熱を注げなかった人はブログで稼げないと斜に構えて見ている。幼少期から突きつけられた現実<リアル>の積み重ねが今なのだから、ここから簡単にワープすることはできない。

起業家になるために特別な才能はいらないが、潮流に流されて起業する人たちをどうしても好きになれない。

ぼくは起業家になりたくてなった訳ではない。社会が嫌で嫌で、逃げ出したかっただけだ。サッカー教室に行くのが嫌だから家でゲームの電源をオンにしたのと同じ感覚だ。

しゃべくりで人を魅了したり、動かしたりすることも苦手だった。だから黙々とデザインとかプログラミングを勉強して自分で形にするしかなかった。

できないことから逃避し続けて、もがいた結果が良くも悪くも今なのだ。

いつか、同じようなやつらを集めて起業家のイメージに一石を投じるような組織でも作ってやろうか。

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@斉藤ノブヨシ

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